山行記録帳(2011)@
〜Yamazaki's Photo Diary 2011,@〜


 【山行リスト】
 2011年最初の山〜皆神山  猿ケ馬場峠付近の防備上重要拠点〜竜王城址
 展望が最高!〜小諸飯綱山(富士見城址)  謎の大城郭〜中野市豊田の城山(替佐城址)
 意外な歴史をはらむ〜城山(尾野山城址)と孫台  早くも再訪〜皆神山
 ノンビリ陽だまり里山歩き〜一重山(屋代城址)  久々に家族全員で〜森将軍塚古墳
 まるで絨毯のよう!〜旭山山麓・里島カタクリ群生地  二日連続で訪問〜髻山(髻山城址)
 展望良好の寂峰〜篠山  ここもまた隠れたカタクリ群生地〜高雄山
 午前だけの里山巡り@〜甲山(甲山城址)  午前だけの里山巡りA〜陣場平山(葭雰神社砦跡)


 2011年最初の山〜皆神山
 1/1、2011年最初の山として、私は昨年と同様、長野市内松代の「皆神山」を選んだ。
 昨年、私がこの山に訪れたのは、折しも大雪により、「山」らしい山に行けなかったことにより、いわば「苦肉の策」として選んだものだった。が… その際、この山の頂上近くにある「皆神神社」には、大雪にもかかわらず「初詣」で存外多くの人々が訪れているのだということを、はからずも知ることとなり… 「山登り」の新年初訪問の地としては、案外格好の場所かも知れないと思い、今年は、当初からここに「初山」として訪れるつもりでいたものである。
 もっとも今年の場合、昨年と違うのは長男・次男同伴であったこと。これまで元日といえば、常に私一人で「初山歩き」であったので、若干妙な感じもしたものの… しかしこの冬は、これまで寒気が厳しい割には降雪が少なく、元日の今日も、皆神山の山上にはほとんど積雪が見られず、まるで晩秋か初春のようだった。私は、一種倒錯したような気分と共に頂上神社に参拝の上、最高点付近に上がり、そこから白銀の飯縄山や戸隠連峰方面を眺めつつ… 今年もまた、良き山行に恵まれたいものだと、ふと思うとはなしに思った。







 猿ケ馬場峠付近の防備上重要拠点〜竜王城址
 1/1、皆神山にて2011年の「初山詣で」の後、まだ時間は十分あるので、どこかついでに他の山にでも、と考え、長野市信更町方面に車を走らせてみると… 意外、市街地にはほとんど雪が見当たらないのに、それからほんのわずか高度が上がった信更町では結構な積雪なのだ。折しも長男・次男同伴ゆえ… これはダメだと早々に諦め、長野市街地方面へと戻っていったが、その途中、太田原付近を通過しようとした際、地元で設置した案内標識に「竜王城址」の表示があるのが目についたので、折角だから、ちょっと立ち寄っていってみることに。
 もっとも、そこへの道でさえ、四駆でない我が愛車は早々にお手上げ状態となったため、以後は凍てつく車道を長男・次男と共にてくてく歩いてゆくと、そのうち道が右にカーブしている地点の両側に、山城の郭の遺構とおぼしき平地が現れ、その一角に「龍王城跡」の説明看板を見出した。
 それによれば… 武田・織田氏滅亡後の天正11年(1583年)、上杉景勝の支配下となった北信濃に小笠原貞慶が猿が馬場峠より侵攻してきた際、龍王城留守居の城将・清野氏が、わずか40騎の守兵で奇策を用いて小笠原の野望を挫いたとのこと。そこで改めて周囲を見回してみると、案外、道をはさんだ両側に設けられている削平地を除いては、特に遺構らしい遺構もなく… はて、赫々たる戦績を誇る割には、えらく単純な城址であることよ、と妙な感を禁じ得ず。
 で… 自宅に戻ってから調べてみると、『長野縣町村誌 北信篇』の「桑原村」の「古跡」の項中「龍王城跡」に「本村戌の方十五町餘にあり。東西百二十六間、上杉景勝の幕下清野左衛門尉、天正十年より慶長三年迄之に居る。元和年中廢城となると云ふ。」との記述が見出されたのみで、また、長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』のP106にある略測図も、私が現地で見た通りの、きわめて簡略な単郭の図が示されているのみだった。もっともよく考えてみると、現地の案内看板にも、この城の留守居の城将・清野氏が小笠原の侵攻を防いだとは書いてあるものの、この城に立て籠もって戦ったとは一言も書いてはないので… 先に私が抱いた「赫々たる戦績を誇る割に単純な縄張の城址」とは、それこそが単なる私の誤解であったようだ。






 展望が最高!〜小諸市の飯綱山(富士見城址)
 1/8、所用で佐久方面に訪れた帰り、あまり天気が良いので、折角だからと小諸市にある飯綱山(富士見城址)に立ち寄っていく。
 この山、浅間山方面の眺めが絶景であるのをはじめ、好天時なら日本アルプスや八ヶ岳の山々や、遠く富士山までも見渡せるなど(注:「富士見城」の名はここからきているという)、低山ながら周囲の眺望にきわめて優れ、短時間の訪問でも充実度が高いスポットゆえ、私もこれまでしばしば訪れたことがあるのだが、しかし実際に富士山が見えた機会となると、実のところ、さして記憶に残っていないというのが実情だった。
 しかし今回は幸運にも、存外明瞭に富士山の姿を望むことができたのをはじめ、北アルプス槍・穂高連峰や八ヶ岳連峰の眺めも素晴らしく、さらには次第に夕暮れが迫る中、浅間山の山肌が夕陽に刻々と薄紅く染まっていく様子を眺めることができるなど、事前に予想もしなかったほどの眺望の豪勢さで、ちょっとずくを出して立ち寄った甲斐は大いにあった。
 たとえ世間一般の自称山岳愛好家の多くが「山」と認めないような手軽な里山であっても、人それぞれ考え方次第によって、素晴らしい「価値」をよく見出し得るところは星の数ほどあるもの。ここ小諸市の飯綱山も、正にそんな場所の一例といって間違いあるまいと思う。







 謎の大城郭〜中野市豊田の城山(替佐城址)
 1/9、この日は時折小雪も舞うような、今ひとつはっきりしない天候ではあったが、それでも折角の休日ということで、中野市豊田にある「替佐城址」の城山に訪問。この城址、事前情報からして、結構大規模な山城址であるということを知ってはいたが、案外これまで訪れる機会がなく、今回が私にとって初の訪問ということになった。麓には適当に案内標示があり、登り口はすぐにわかったが、現地は存外雪が深かったため、家族には登り口付近で遊んでいてもらうこととし、私のみにて頂上の本郭址を往復。と… 事前の予想をはるかに超える、深い空堀や急な切岸、広大な郭の遺構に、少なからず驚嘆した次第。
 これほどの山城なれば、必ずや歴史上重要な位置を占めるポイントであったのだろうと思いきや… いざ手元の文献をひもといてみると、意外にも、どうも判然としないのだ。ちなみに『長野縣町村誌 北信篇』の「豊津村」の「古跡」の項には「對面城」として紹介されているが、歴史については「築城年月不詳。小畑上總介なるもの居城せしと云ふ、事跡不詳。土俗傳に小畑氏は木曽義仲の幕下根々井行親の臣と云ふ、信じ難し」と記述されているのみ。ちなみに南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)には「武田信玄が永禄七年築城。上杉の押さえ。」とある。また、郷土出版社刊『定本 北信濃の城』には「奥信濃随一の巨大山城」等の見出しが付された上、「右岸の壁田城とともに、戦国時代武田方により築城ないしは修築され、飯山城に備えたものと推定される。伝承では武田方の将、小幡上総介が城主と伝え…」とあるが、この点に関し、信濃史学会編『信州の山城』(信毎書籍出版センター刊)は「ちなみに武田信玄に臣従した小畑泉竜斎憲重と同一人物であるか不詳」としている。なお、信州の城に関する最近刊である郷土出版社刊『探訪 信州の古城』も、ほぼ『定本 北信濃の城』の記述内容を踏襲しているが、同城の項の見出しを「謎の大城郭」としており… 結局、今日に至るまで、この見出しの表現こそが同城に関する歴史考証の現状を最も端的に示しているもののようである。







 意外な歴史をはらむ〜城山(尾野山城址)と孫台
 1/10、前日に引き続いての歴史探訪に、旧丸子町(現:上田市)の「尾野山城址」へ長男・次男と共に訪問。
 この城址、国土地理院の地形図上は山名表示がないが、『長野縣町村誌 東信篇』の「生田村」の「古跡」の項中「尾山氏の城址」には「尾野山組未の方山上にあり。
城山、城平の字存して、太刀の折れ、矢の根等を出す事有り。」云々とある他、『丸子町誌 歴史編 上』中「尾野山城跡」の項にも「生田字城山にある山城」とあり、『長野県の地名 日本歴史地名体系 20』中「尾野山城跡」の項にも「小字城平の城山にある山城」とあることから、山名は「城山」で差し支えなさそうだ。尾野山集落の南背後にある稜線上にあり、稜線の末端の駐車場所から「愛宕社」経由で本郭址の頂上に至る。「三峰社」の祠と案内看板があるだけの地味な場所だが、その案内看板等によれば、この城址、度々戦禍に巻き込まれ、天文10年(1541年)の海野平合戦では落城も経験しているとのこと。
 また、この城址の北東、間近に位置する三角点地点の「孫台」にも、余剰時間を利用してついでに訪れてみたが、この地、「山」というより丘陵といった趣の場所ながら、これまた意外な歴史をはらんだ地であるらしく、現地の文字が消えかけた案内看板を判読すると、かろうじて次のように読み取れた。
 「平将門戦跡案内 天慶二年関東を平定した平将門は尚、勢力を保つ従兄弟の平貞盛が上京しようとするを追って信濃路に入り当高台(尾野山地籍俗称高孫代)を背に北方の斜面に敷陣する貞盛勢を千曲川を渡り攻め激戦の上敗走せしめた、此の場所は真に由緒ある地点である。」
 私は実際、まさか信州のこの地で「平将門」の名を目にするとは思いもしなかったので、帰宅後、半信半疑で手元の参考文献をひもといてみると、確かに『角川日本地名大辞典 20 長野県』中「尾野山」の項や、『長野県の地名 日本歴史地名体系 20』中「尾野山城跡」の項に、いずれも出典を『将門記』とした上で、同様の記事が掲載されていた(!)。こんな、思いがけない隠れた歴史に接することができるのが、実に里山巡りの醍醐味の一つといえよう。







 早くも再訪〜皆神山
 1/15、この日もまた、最近多いパターンで、長男・次男を伴い、どこか軽い山でも歩いてみようと自宅を出たが、車を走らせているうち、周囲には生憎の雪が舞い始め… この天候下、子供同伴ではあまり無理もできないが、かといって、どこにも訪れずに家に戻るのも面白くだろうと思われたゆえ… 結局、今年の元旦に「初詣」に訪れたばかりの皆神山に、早くも再訪することに。
 もっとも、ほとんど積雪のなかった元旦の訪問時の明るい雰囲気とは対照的に、今回は曇天の降雪下とあって、一種墨絵のような雰囲気の中への訪問となったが… そのせいか、印象的には、むしろ今年初めて訪れた山であるかのようだった。
 こんな調子で、今後も、機会あるごとに、この山には幾度となく訪れることになるのであろう…






 ノンビリ陽だまり里山歩き〜一重山(屋代城址)
 2/20、またまた例によって、長男・次男同伴での軽い里山歩きに、千曲市の「一重山」へ訪問。
 最近、私も年のせいか(?)、以前のように何かに取り憑かれたかのごとく新しい「山」を求めて東奔西走するというよりは、至極気楽にノンビリと、同じ山に繰り返し訪れることが増えてきたような気がするが… この山もまた、実は今回と全く同じメンバーで、昨年の大晦日に訪れたばかり(!)。しかし昨年の大晦日の場合、あまり時間がない中での訪問であり、有明山との間の鞍部から手っ取り早く頂上のみ往復しただけだったので、今回はしっかり「表玄関」から、「一重山成田山不動尊」や「矢代神社」経由で、心地好い陽だまりの道を踏みしめつつ訪れてみた次第。
 実際、こちらからの道の方が、歴史探訪的には大いに変化に富んでいる上、「矢代神社」前からの展望も素晴らしいので、面白味も充実度も格段に違う。そのせいか、同伴した長男・次男も、頂上に到着するまで、まさかここが、昨年の大晦日に訪れた同じ山とは気がつかなかったもののようだった。(実は2004年にも一度、このコースから家族で訪れているのだが、当時は長男・次男とも幼少だったせいもあってか、2人とも記憶から完全に消失していたものらしい。幼少時からあまり山に連れて行きすぎるのも、個々の山の印象を薄れさせるという意味では、少年時代の「想い出」の形成上、考えものなのかも知れない…)







 久々に家族全員で〜森将軍塚古墳
 2/27、たまたま空いた時間の有効活用にと、千曲市にある「森将軍塚古墳」を散策してみようと思いつき、家族と共に自宅発。私にとっては昨年9/11に根羽村の茶臼山に訪れて以来、久々に家族全員での里山歩きの機会。
 ここは古墳の後円部の上が頂上扱いになっている特異な山で、一応山名もあるのだが(「大穴山」)、一般には「山」というよりは史跡扱いの地ゆえ、ここを「山」のつもりで訪れる者は、私のように「山」に妙なこだわりを持っている者を除いては、そう多くはなかろうが、それでも近隣の人々にとっては、格好の散歩コースになっているようで、この日も曇天模様の寒冷な空気の下ながら、案外多くの人の姿がみられた。
 そんな場所ゆえ、幼少の子供を伴う家族ぐるみでの訪問でも、特に危険もなく、安心して歩けるのがいい。「頂上」である「森将軍塚古墳」の後円部上からの眺望も素晴らしく、今回も曇天の割には、飯縄山や戸隠連峰高妻山方面などが比較的良好に見渡せたのが嬉しかった。






 まるで絨毯のよう!〜旭山山麓・里島カタクリ群生地
 ここ数年の私にとって、春先が最も興味深く、ワクワクする時季になっている。それは無論、最近の私の自然観察中心の里山歩きにあって、この時季が最も目につく「生物」の印象がフレッシュであるからに他ならない。茶色や黒色系統の単調な色彩に大部分が支配された冬枯れの山の情景の中に、突如として、華やかな花や、可憐な蝶の舞が見られたりする瞬間こそ、私にとって、いよいよ春だとの思いを最も強く実感できる機会なのだ。
 そんな、春の訪れを告げる様々な「生物」の中でも、特にその美しさを誇るのが、カタクリの端整で鮮やかなピンク色の花であり、私はこの時季になると、近隣から遠方まで、各所のカタクリを見に行くのだが… 今年4/16に、旭山山麓の里島にあるカタクリ群生地で目にした情景には、心底、驚いた。同地にはここ数年、毎年訪れているが、今年の開花状況たるや… これまで見てきた中でも最高の美しさ。例えて言うなら、まるでピンク色の絨毯のごとし!
 あまりの素晴らしさに、たまたまその日の晩に我が家に泊まりに来ていた女房の母親を、翌朝引っ張り出して現地に案内してしまったほど。地元の人々の整備も行き届いているようで、年々良くなっているようなのが嬉しい。来年はまた、さらに美しい情景を見せてくれることだろう。






 二日連続で訪問〜髻山(髻山城址)
 私にとって近年、カタクリの開花の時季になると、決まって訪れてみたくなる山の一つ、それが長野市若槻と飯綱町との境にある「髻山」(髻山城址)である。この山、先に訪れた里島の群生地ほどではないにしても、頂上直下に結構まとまった群落が見られるからだ。
 そこで、里島で素晴らしい群落を目にしてから一週間後の4/23、早速訪れてみた。現地の標高的に、概ね里島の一週間後くらいが盛りであろうと見当をつけての訪問だったが、正しく然りで、ちょうど今が盛りの可憐な花々を狙い通り目にすることができた。
 ところが… 思わぬ誤算。何とデジカメを家に忘れてきてしまったのだ! 折角盛りに訪れたのに、その情景を記録に残せないなど、こんな残念な話はない。で… 翌日の4/24の午後、はからずも再度ここに訪れることになった次第。
 もっとも、幸か不幸か、前日よりも今日の天候の方が良好であったため、画像撮影的にはむしろ好条件。また、昨年は若干盛りを過ぎた時期に訪れ、今ひとつ食い足りない思いが残ったせいか、今年のカタクリの可憐さは、私の目にはきわめて印象的な色彩として映った次第。







 展望良好の寂峰〜篠山
 4/30、カレンダーの上では世に言う「ゴールデンウィーク」の中の一日、私は、ちょっと自然観察を兼ねた軽い里山歩きをしようと、一人、家を出た。
 私の知人などは、長期旅行に出かけている者もいるというのに… どうも最近の我が家は所用の巡り合わせも金回りも悪く、折角の連休というのに、とても家族旅行になど出かけるほどの余裕はない。例年、税金の納入やら何かと出費がかさむこの時期、4人の子供を抱える我が家にとって、毎年毎年給料がカットされている今日の逼迫した状況の下にあっては、如何ともしがたい。本当なら、少しでも先の大震災の被災地域の力になりたいものなのだが…
 しかも… 一番休みを楽しみにしそうな子供達には、情け容赦のない「宿題」の山が…(!) 私が小さい頃には、それほど宿題は出なかったような気がするが…? いくら学校が週休二日になったとはいっても、ちょっと度が過ぎるのでは…? ともあれ、そんなこんなで、せいぜい出かけられるのは近所の山ぐらい、しかも子供は宿題の片付けに追われて同行しがたいときており… かくて今日の里山歩きは私一人となった次第であった。
 それにしても、こんなことで、本当に大丈夫なのか? 一体、日本は、この先どうなるんだろう…? などと釈然としない思いを抱きつつ、この日、まず訪れたのは「篠山」。私にとっては数年前、猪に危うく突っかけられそうになった恐怖体験の記憶も生々しい山だが、今回は猪の気配すらなく、至極静寂な雰囲気の中、平穏無事に頂上を往復。その間、樹間からは適当に周囲の山々などの眺望が良く、それらの情景はまた、私の脳裡に何ともいえぬ感慨を喚起した。
 今も昔も変わらぬ姿を見せる、悠久の山河。その雄大なたたずまいの前にあって、現今の世相の何と軽薄なことよ…!?







 ここもまた隠れたカタクリ群生地〜高雄山
 4/30、先の「篠山」への訪問後、次いで信更町にある「高雄山」に訪れてみることに。
 今回、私がこの山への訪問を思い立った理由は、他ならず、この山の山腹にカタクリの群生地がいくつかあることによる。先日、旭山山麓の里島や、若槻の髻山の群生地を見てきたので、今度はここ「高雄山」のそれを見てみようというわけ。
 そこで私は、まずは「高雄山」の頂上三角点を往復してきた上、いくつかある群生地のうちの一つに通じる道へと、期待と共に早速足を踏み入れてみた。ところが… いざ現地に到着してみると、意外、カタクリの花は一応あったものの、以前見た時よりも著しく花の数が少なかったのだ。さては盗掘されたかと思ったが、現地の様子を見るに、別段そういうわけでもないらしかったので… とどのつまりは、どうも、訪れた時期が若干早すぎ、まだカタクリが十分生育し切っていないもののようだった。
 期待が大きかっただけに、かなり「拍子抜け」した感も強かったが、しかしさすがに大自然が相手では、時としてこんなこともあるもの。そしてまた、こんな予期しえぬ事態に直面すること自体、「自然観察」のうちなのだろう…






 午前だけの里山巡り@〜甲山(甲山城址)
 5/3、ゴールデンウィークも後半に入ったが、我が家の金回りの悪さは相変わらずで、当然、遠方への旅行など望めない状況の上、この日は午後から所用があり、午前中しか空き時間がないときた。とはいえ、貴重な時間をただ無為に家で過ごしてしまうのも、何とも惜しい。そこで、せめて近在の軽い山でも… というわけで、特に目的地も定めないまま、私一人、あわただしく車で自宅発。
 気の向くままに、とにかく車を走らせていくうち、にわかに思いついたのが、長野市内の小田切にある「甲山」(甲山城址)。この山、以前訪れた際には、特に道らしい道もなく、頂上も薮がちで案内看板等の類もなく、ただ石祠が1基祀られているだけという地味な場所だったものだが、その後、各所で里山の見直しと整備が進行しつつある中、あるいはこの山でも、その後多少状況に変化があったかどうか、参考までに確かめてみたくなったのだ。
 で… いざ現地に訪れてみると、何のことはない、当時と何ら状況の変化はなく、相も変わらず静寂な雰囲気の中に、石祠が1基、ひっそりと鎮座しているだけであった。まあ実際のところ、ここに限らず、まだまだこんな状況が大多数の里山の実態ということなのだろうが。
 私は、いささか拍子抜けしたような気分と共に、その石祠に一礼し、その周辺の山城の遺構などをしばし見て回った。






 午前だけの里山巡りA〜陣場平山(葭雰神社砦跡)
 5/3、先の甲山(甲山城址)への訪問後、まだ若干時間があるので、折角だからと小野山経由で「陣場平山」へと上がってみることに。
 この山、最高点の頂上三角点を往復するだけでは、いささか味気ないので、今回はあえて「葭雰(よしきり)神社」の峰に訪れてみた。実際ここが、この山域中、最も地域の人々との昔からの関わり合いが感じられる「里山」らしい一角なのだ。
 折しも周囲の景観が黄砂現象でかすみがちの中、足元のスミレの青紫の花々や、キブシの黄色い花々の色彩と、まだ全般的には冬枯れの名残の山の「表情」とが、いつもにまして強烈なコントラストをなしているのに目を惹かれつつ、「葭雰神社」前まで上がり、まずは社前に一礼の上、その周囲の荘厳な雰囲気を、時間が許す限り体感。無論、私以外に周囲には一人の人の姿もなし。そういえば最近「パワースポット」なるものがブームとなっており、戸隠神社奥社などは某テレビコマーシャルの影響で大変な賑わいを見せているというが、本来、大自然の「気」を感じたいなら、このように静かで落ち着いた雰囲気の下、誰にも邪魔されず、ただ一人瞑想でもした方が余程、効果的に思うのだが…? もっとも、悠久の自然や歴史と関わり合う機会を持つこと自体は大変良いことだし、また世間の人々が全て、私のごとく一人で山に登っても平気な者であるとは限らないので、あえて最近の風潮に異を唱えるつもりもないが…