山行記録帳(2010)B
〜Yamazaki's Photo Diary 2010,B〜


 【山行リスト】
 歴史性豊かな山域〜長興寺山と妙義山城址  地味で静寂〜中野市の城山(安源寺城址)
 現存した「旗塚」遺構〜長野市の茶臼山(茶臼山陣址)  新たな公園整備に好感〜岩倉虚空蔵山
 2010年最後の山歩き@〜城山(荒砥城址)  2010年最後の山歩きA〜一重山(屋代城址)


 歴史性豊かな山域〜長興寺山と妙義山城址
 12/4、先に真の「上ノ山」頂上に訪問を果たした後、まだ若干時間に余裕があるので、ついでにどこか立ち寄ってみたく、持参していた『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の地形図を参照したところ、塩尻市洗馬付近に「長興寺山」という妙な名前の山が目についた。この山の北東の神社記号のあるあたりに「妙義山城」という、これまた妙な名前の城址表示があったことにも興味を惹かれ… かくて次なる目標決定、早速、山麓へ車を走らせる。
 登り口を捜索しつつ、北側山麓に付けられている道を行くと、「観音寺随道」なる狭いトンネルを抜けたすぐ先に「安曇野線1号線 No.10」と記載された送電線巡視路の標示があったので、その脇に駐車。以後は徒歩で送電線巡視路伝いに、妙義山城址と長興寺山の間の鞍部に上がり、そこから、まずは長興寺山を目指して右(南)へと稜線をたどる。途中、例の「No.10」送電線鉄塔のある地点を通過したが、そのあたりは木々が伐り払われていて展望が良く、東に南アルプスの連嶺や鉢伏山など、また北西側には、北アルプス穂高岳や常念岳が前衛の山の背後にわずかに顔を見せているのが望まれた。
 頂上はそこから少々稜線伝いに上がった所にあったが、例によって三角点標石があるだけの、典型的な里山の頂といった趣の場所。さほど長居はせずに先刻の鞍部まで引き返し、次いで妙義山城址の峰へ。比較的明瞭な郭の遺構を経て、ほどなく地形図上神社記号のある地点に到着。と… そこには一般的な神社のように社殿や祠はなく、代りに明治年間に建立された「御嶽神社」「駒嶽神社」「摩利支天」「駒嶽開山」などの石碑が林立していた。
 なお、下山後、東麓の「長興寺」にも参考までに立ち寄ってみたところ、ここは木曽義仲公御母堂小枝御前の菩提寺であるとのこと。全く事前知識もなしに訪れた地にして、かくも豊かな歴史性に接し… 私は、これだから里山巡りはやめられないと、またしても強く実感した次第であった。







 地味で静寂〜中野市の城山(安源寺城址)
 12/5、年末も近く、何かと所用で多忙の中、中途半端に空いた午後の時間を有効に活用すべく、にわかに長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』を参照、たまたま目についた中野市の「安源寺城址」への訪問を思いつき、長男・次男と共に長野市の自宅発。
 この城址、『長野縣町村誌 北信篇』の「安源寺村」の「古跡」の項に「小内城墟」とあるもので(注:南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)にも同名で紹介)、同項には「本村の東北間、
長畝丘嶺上にあり。東西四十五間、南北卅三間あり。回字形をなす遺址今猶存す。高梨氏の幕下某居城せしか不詳。永祿年間武田信玄の爲に落城す。」とあり(注:前記の『信州の城と古戦場』には、「高梨房光の城。永禄二年、武田軍が攻略。」とある。)、往時はこの城址一帯の山嶺が「長畝丘」と呼称されていたことが判る。もっとも、長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の城館跡一覧表には、城名は「安源寺城」、現地名は「中野市大字安源寺字城山」とあり、この点、郷土出版社刊『定本 北信濃の城』でも同様に記載されているので、一般には特別の事情がない限り「安源寺城」「城山」と呼んでおくのが無難であろう。
 さて、いざ訪れた現地はといえば… 陽の短い冬季の午後からでも楽に上がれる程度の丘上で、さして汗もかかず、おまけに南側山腹は主に果樹園、また北側山腹は頂上近くまで霊園が迫っていて、「山」としては今ひとつ雰囲気不足の地ながら、それでも最高点とおぼしき地点の周囲には土塁などの遺構が見られ、相応に古城の趣は味わえた。無論それとても、特に標識や解説板があるわけではなく、見る人が見れば判るという程度のものではあったが…






 現存した「旗塚」遺構〜長野市の茶臼山(茶臼山陣址)
 季節はすっかり冬季、蝶の姿もまるで見られなくなったせいか、最近はまた一層、歴史探訪とセットの里山歩きに惹かれるものあり… 年の瀬も迫りつつある12/12の午後、長男と次男を伴い、長野市内の「茶臼山」に出掛けた。
 この山、今では「茶臼山地滑り」と「恐竜公園」で有名な山であるが、かつて戦国の世において、甲斐の武田氏と越後の上杉氏が激しく争った一連の川中島合戦時、一時武田信玄の本陣が置かれたという歴史を有する。すなわち川中島の戦いの中、最大の激戦となった永禄4年(1561年)の戦いの前段で、武田信玄は海津城に入るまでの間、一時的にここに本陣を置いたというのだ。そのあたりの歴史は『長野縣町村誌 北信篇』中「山布施村」の「古跡」「茶臼山」の項が今に伝えており、それによれば「村の巳午の方、永祿四年甲越戰爭の際、武田信玄の本陣となり、水除の堀切三ケ所、
旗塚數多あり。」とのことであるが、その肝心のかつて本陣址だったという場所自体が、『長野市誌』第12巻資料編の「第3編 城館跡・条里」の一覧表中「伝茶臼山陣跡」の項によれば、「陣跡は地滑りで残存していないと判断される。」とあったため、私も今では現地に当時の痕跡は何ら残されていないものと、つい最近まで信じていた。
 ところが… 昨年の3月中頃、やはり長男と次男を伴ってこの山に訪れた際、頂上直下の分岐点で、思いがけず「旗塚」と記された道標を発見(!)。この「旗塚」とは、例の武田本陣の一部では? とピンときた。以来、近日中に是非一度、そこに訪れてみようと思っており… 今回、ようやくその機会を得た次第。
 で… いざ現地に訪れてみると、果たして然り、それは武田本陣当時の「旗塚」の遺構とのこと。往時は「數多」あったはずの塚も今はわずか数個を残すのみであったが… それでも以前は既にないものと諦めていた旗塚の現物を目にすることができ、短時間ながらきわめて興味深い里山歩きの一時であった。







 新たな公園整備に好感〜岩倉虚空蔵山
 私にとって年の瀬は例年、なかなか多忙で、山に行きたくても、なかなかまとまった時間が取れない。殊に最近は公私共に何かと忙しく、今年も何やかやと慌しくしているうち、いつの間にか残すところ2日となってしまった。が… たとえわずかな余剰時間でも、思い立ちさえすれば手軽に訪問できるのが「里山」の良いところ。12/30も、せめて中途半端な余剰時間の有効活用にと、長男・次男を伴い、午後2時過ぎになって家を飛び出した次第。
 今日の目的地は、長野市信更町「湧池」の東にある「虚空蔵山」。同じ信更町の高野にも同名の山があって紛らわしいが、こちらは弘化4年(1847年)の善光寺大地震の際、この山の中腹が崩壊して犀川を一時堰き止めたのが後で決壊し、下流に大災害をもたらしたという重大な歴史を有する。
 今回、私がここを目的地に選んだのは… つい最近の新聞報道で、地元関係者により、先の善光寺大地震の記録を後世に伝えていくため、「湧池」の畔に新たな公園整備が進められたという記事を目にしたことによる。今日この機会に、我が子の教育も兼ねて、新たに整備された施設を見学してみようというわけ。
 そこで、同山の頂上三角点に挨拶した後、「湧池」畔に下り、件の公園にある、善光寺大地震の記録が内部に掲示されている東屋に立ち寄ってみた。と… その掲示の詳細さと判り易さは事前の想像以上。善光寺大地震時の崩壊等の経過はもちろん、当時の古文書の写し(注:現代語要約を含む)、崩壊前と崩壊後の地形比較図、現況崩壊地形の写真図解など… 初めて訪れた人にも当時の状況を容易に把握できるように配慮されており、地域の歴史を後世に確実に語り継いでいこうとの関係者の方々の強い意思が感じられ、非常に好感が持てた。近年、各所において、ここ虚空蔵山のように、地域の「里山」を見直す動きが少しずつ広まりつつあることは、「里山」ファンの私などにとっては、実に嬉しいことである。






 2010年最後の山歩き@〜城山(荒砥城址)
 今年の年末は低温が厳しい割には降雪が少なく、いよいよ2010年も大晦日の12/31になっても、長野市街地周辺の里山にはまるで雪らしい雪が見られない。そこで… 大晦日ではあったが、2010年最後の「山」の気分をちょっと味わって来ようと、長男・次男を誘い、自宅発。
 まず向かったのは、千曲市上山田にある「荒砥城址」の城山。この山、戦国時代(西暦1500年代半ば)に甲斐の武田信玄と対峙し善戦した村上義清の一族、山田氏により築かれた山城址の山で、武田・上杉の一連の戦いの過程で、幾度か城主交代や落城を経験しているという地であるとともに、本郭址周辺には戦国時代の模様をよく再現した櫓や郭が整備され、最近ではNHK大河ドラマ「風林火山」のロケ地になったことでも有名な地でもある。
 で… いざ現地に訪れてみると、さすがに大晦日とあって、頂上の本郭址に通じる門扉は閉ざされていた。しまったと思ったが、折角来たのだし、このまま登らずに帰るのも残念ゆえ… あえて一般には知られていない樹林の中の昔ながらの踏跡をたどって頂上本郭址付近まで上がり、きわめて短時間、善光寺平や上田原古戦場方面などの雄大な展望を眺めたのみにて下山、次なる目的地に向かった。






 2010年最後の山歩きA〜一重山(屋代城址)
 12/31、先の旧上山田町の城山(荒砥城址)に目算違いで長居できなかったことから、下山後もなお若干の時間あり、そこで我々は、今度こそ本当に2010年の最後の山とすべく、にわかに千曲市屋代駅の背後にある小峰「一重山」(屋代城址)に訪れてみることに。
 この山、戦国時代に村上氏や武田氏の配下となった現地豪族・屋代氏の居城があった地で、頂上の本郭址などの縁にかなり顕著な石積遺構が見られたり、また本郭址の一角に、往時実戦に備えて植えられたと思われる矢竹が今も生い茂っている等、歴史ファンにとっては割と興味深い場所。
 この山に登るには、北側の登り口から「矢代神社」経由で頂上に至るのが「表口」であろうが、今回は時間があまりなかったため、南側の、有明山との鞍部まで車で行き、そこから一気に頂上まで駆け上がった。当然、既に夕刻が迫っており、これまた先の上山田の城山と同様、さして長居はできなかったものの… それでも冠着山方面の山肌が夕陽を受けて淡く赤みを帯びている様は、私にとって今年一年の山歩きのピリオドに相応しい、至極印象的な情景であった。