山行記録帳(2009)@
〜Yamazaki's Photo Diary 2009,@〜


 【山行リスト】
 2009年最初の山〜森将軍塚・有明山・一重山  武田氏衰亡の歴史をはらむ〜大月市・岩殿山
 「ぐんま百名山」の小峰巡り@〜崇台山  「ぐんま百名山」の小峰巡りA〜桜山
 「ぐんま百名山」の小峰巡りB〜庚申山  「ぐんま百名山」の小峰巡りC〜観音山
 展望良好で歴史性豊かな地〜象山(竹山城址)  また「ぐんま百名山」に〜石尊山と戸谷山
 「ぐんま百名山」50峰目の訪問〜甘楽町・天狗山  今年初の訪問〜馴染の妻女山
 久々の訪問〜上田市・坂城町境の太郎山  悲惨な落城史あり〜豊野大倉の城山(大倉城址)
 展望目当てに寄り道〜辰野町の大城山(大城址)  今年初めて「蝶」に遭遇〜長野市の茶臼山


 2009年最初の山〜森将軍塚・有明山・一重山
 2009年元旦、私にとっては半ば恒例化している元日午後の「初登り」として、今年は千曲市にある森将軍塚古墳(大穴山)から、有明山将軍塚古墳を経由して有明山へ、さらに一旦森将軍塚近辺まで戻り、一重山(屋代城址)まで足を延ばすコースに訪問。昨年の元旦は大雪で、「初登り」は正月3日まで待たねばならなかったものだが、今年は幸い雪が少なく、安心して新年最初の山歩きを楽しめそうな状況だった。が、午後のみという限られた時間の中での行動ゆえ、あえて無理はせず、勝手知った有明山周辺での里山散策を選択し「初登り」を楽しんだ次第。
 まずは森将軍塚(大穴山)へ。復元された前方後円墳の後円部に立つと、そこからは善光寺平の眺望が良好だが、その時点では残念ながら曇り気味で、周囲の山々には白いヴェールがかかり今ひとつパッとせず。よって、ここはさして長居せず、次いで有明山を目指す。小規模ながら前方後円墳の形態をかろうじて残す有明山将軍塚を見て、さらに冬枯れの山稜をしばしで頂上着。周囲を灌木に囲まれ、展望はあまりきかない場所ながら、静かで落ち着いた雰囲気の私好みの頂上。ただ、季節の割に雪がほとんどなかったので多少妙な感あり。
 しばしの頂上での憩いの後、森将軍塚近辺に下ると、そこでようやく雲が切れ、善光寺平の背景に白く雪化粧した飯縄山の姿が望まれた。私は、これは来た甲斐があったと喜びつつ、さらに多少の余裕時間を利用して、夕刻近い枯葉の道を一重山までノンビリと歩いた。







 武田氏衰亡の歴史をはらむ〜大月市・岩殿山
 1/11〜13の三連休は、例によって家庭の所用があり、年始を除けば新年初の三連休にもかかわらず「山」の方は思うにまかせなかったが… 中日の12日、たまたま首都圏の方へ所用に出掛けての帰り、中央自動車道を山梨県の大月市付近にさしかかったところで、にわかに軽い山歩きを思いつく。その山とは「岩殿山」。その名のごとく岩が露出した一見険しい山容に、私は実は以前から惹かれていたものだが、事前情報によれば、山容の割に道はよく整備されていて危険もなく、付近の人々の散歩コースになっているとのこと。標高もさほど高くないし、ここなら幼少の子供を含む家族同伴でも、さして苦もなく登って来れよう… と見当をつけ、大月ICで高速道から下り、登り口まで車を走らせる。
 早速、登り始めてみると、事前情報に偽りはなく、階段や手摺も整備され、全く心配はない。先日降った「カミ雪」も道ではほとんど消失しており、心地好く一汗かいた頃合、「鏡岩」上部の展望台に出た。ここは戦国時代、甲斐武田氏の重臣小山田氏の山城址(岩殿城址)で、天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍に追われた武田勝頼の一行を阻み、武田氏の滅亡に拍車をかけたとされる。(注:もっとも、山梨県教育委員会編『山梨県の中世城館跡 分布調査報告書』には、「『甲陽軍鑑』や『甲斐国志』の言う「小山田氏の要害」には、郭の規模等から、必ずしも十分ではない。」云々とある。) また、ここから望む富士山は俗に「十二単の富士」と呼ばれる絶景とのことだったが… この日は残念ながら雲をまとっておりパッとせず。それでも天候は比較的良好で、眼下の中央自動車道や桂川などの展望は素晴らしく、訪れた甲斐は十分の憩いの一時であった。







 「ぐんま百名山」の小峰巡り@〜崇台山
 1/24は、かねて久々に西上州あたりの山にでも訪れてみようかと思っており、どこか面白そうな山はないかと前夜にインターネットを閲覧していたら、たまたま群馬県ホームページの「ぐんま百名山」サイトが開けた。その百名山リストを見ると、私にとっても未訪で、かつ家族同伴でも手軽に訪れられそうな山が目白押し。しめた、明日はこれでいこう! と、適当そうな山をいくつかピックアップ。
 かくて翌日、家族と共に早朝自宅発、上信越自動車道を富岡ICまで飛ばし、まずは本日第一の目的地に定めた「崇台山(そうだいさん)」へ。
 この山、標高わずか299mという小峰ながら、百名山に選定されたということは、必ずや何か魅力があるのであろうと思いつつ、家族と共に登り口からノンビリ歩いて頂上に達すると… 期待に違わず、素晴らしい展望。殊に北の方、純白の雪をまとった浅間山の麗姿!
 また、山中には桜の木が多く目についたので、おそらく春先には桜の名所にもなるものであろう。
 空模様はまずまずで明るく、また周囲には雪も全くなく、まるで晩秋か初春の山のような陽だまりの中、ただ多少吹き抜ける寒風だけが身を切るごとく冬らしかったが、それも頂上の縁の南向き斜面に腰を下ろすと、全く気にならなくなった。私は家族と共に、そこで若干早めの昼食の風呂敷を広げつつ、昨日偶然インターネットでこの山の名を目にした巡り合わせを、まさに我が身の幸運と喜ばしく思い返していた。







 「ぐんま百名山」の小峰巡りA〜桜山
 1/24、我々は先の崇台山から下山後、次いで旧鬼石町(現:藤岡市)にある「桜山」に訪問。この山、その名のごとく桜の名所だが、先の崇台山とは違い、こちらの桜は「冬桜」。もっとも全山満開となるのは12月初めの「桜山祭り」の頃とのことで、大分時季外れではあるが、それでも残り花の少しくらいは見られるのではないか… と淡い期待を抱いて訪れてみた。
 と… まさに狙い通り、まだ結構多くの冬桜の花々が残っており、おかげではるばる出てきた甲斐のある、楽しい山の散策の一時となった次第。ちなみに頂上の案内板などによれば、冬に咲く桜は全国的にも珍しいのだそうで、昭和12年に国の「名勝及び天然記念物」に指定されたとのこと。もっとも、昭和42年の山火事で一旦は桜の半ばを焼失したが、近隣住民の努力により、現在では往時の雰囲気を取り戻しつつあるという。
 しかも、この山が地域の人々に親しまれてきたのは、ただ冬桜のみにとどまらず… この山は古来山麓の人々には「虚空蔵山」と呼ばれており、頂上にある古い緑泥片岩の板碑が、昔から虚空蔵菩薩として祀られてきたという。(注:もっとも実際には、この碑の表面には胎蔵界大日如来を表す梵字が刻まれているが、それにしてもこの板碑、何と南北朝期のものであるといい、歴史的に貴重なものであることは間違いない。)
 このような、地域の人々の愛着あふれる歴史をはらんだ山に訪れるのは本当に楽しい。「ぐんま百名山」、良い山を選定したものだと思う。







 「ぐんま百名山」の小峰巡りB〜庚申山
 1/24、既に崇台山、桜山と訪れたが、まだまだ時間あり、今度は桜山と同じ藤岡市内にある「庚申山」に訪問してみることにする。
 もっともこの山、標高は189mと先の崇台山よりなお低く、また頂上部は「庚申山公園」になっていて、頂上近くまで車で上がれてしまうという、一見あまりに平凡な山なのだが… それでも先に訪れた2峰同様、「ぐんま百名山」に選定されている以上は、必ずや何か魅力があるに違いないと確信し、私は先の桜山から下山後、迷うことなく同山の方向へと車を走らせた。
 そして、頂上に到着してみると… そこには山名のごとく多くの庚申塔が立ち並んでおり、そこがやはり地域の人々に親しまれてきた地であるということが知れた。(注:もっとも頂上の一角にある「庚申塔建立六十一年祭記念」と刻まれた記念碑の文言からすると、著しく歴史の古いものでもなさそうだったが。) また、展望台とベンチくらいしかない「公園」の割に、結構多くの人々で賑わっていたので驚いた。近隣在住で散歩コースとして歩いているらしい人達や、山麓のスポーツクラブか何かのトレーニングで駆け上がってきたらしい青年達など… 外部からの来訪者である自分達が、何やら場違いであるかのような感覚にとらわれつつ、早速展望台に上がってみると、そこからは上州の名峰赤城山方面が良く望まれた。






 「ぐんま百名山」の小峰巡りC〜観音山
 1/24の「ぐんま百名山」の小峰訪問も、既に崇台山、桜山、庚申山と訪れ、さすがに陽も傾き加減となってきた。それで、そろそろ家路につこうかと私は車を高崎方面へと向けたが、その途中、これまた「ぐんま百名山」に選定されている「観音山」が帰り道のすぐ脇にあるので、折角だから、ついでにそこへも訪れていくことに決める。この山、「山」というよりは、巨大な「高崎白衣大観音」で有名な地。私にとっては、長野から東京への行き返りに電車が高崎付近にさしかかると、車窓から西の山上にいつもその観音像が望まれて興味を惹かれていたもので、数年前に一度、観音像には訪れたことがあるのだが、その際にはそこが「山」という意識はまるでなかったので、その裏手にある三角点地点までは足を延ばしていなかった。それで今日この機会に、そこも拝んでいこうというわけ。
 有名な白衣大観音は、昭和11年10月建立、高さ41.8m、内部9階で、内部には多くの観音や菩薩の像が配置されている。内部の拝観は有料だが、我々が現地に到着したときには受付時間終了の10分前(!)。それでも折角来たのだからと、子供達を伴い超特急で9階まで駆け上がる。
 おかげで思わぬ汗をかいたが、何とか10分以内に拝観を終えて大観音を出た後、その背後にある三角点地点へ。ブロンズ像が1基と、ベンチがあるだけの地味な場所だが、ともあれ「山」としての観音山登頂を果たして、ほっと一息。後は大観音像の向かいにある、大観音建立50周年を記念して建設されたという千体観音堂に一礼して、我々は今度こそ本当に家路についた。







 展望良好で歴史性豊かな地〜象山(竹山城址)
 1/24には隣県で、ついつい家族をあちらこちらと大分連れまわしてしまい、おかげで家族の一部から「疲れた」と不興を買ってしまったので、さすがに私もいささか気がひけ、翌25日は自宅近辺で適当に過ごすつもりでいたが… しかし外を見ると、まずまずの空模様、しかも冬の割には案外温暖な気候ときており… こうなると、例によって私の腹の虫がうずき出す。
 で… とどのつまりは欲求を抑え難く、近所で、子供でも安全で楽に歩け、かつ大人でも楽しめそうな里山、ということで、長野市内の松代にある「象山」に訪れてみることにする。この山、私は数年前に一度訪れたことがあるが、頂上からの眺望の良さはもとより、戦国時代の山城址(竹山城址)であり、幕末の英傑・佐久間象山ゆかりの山であり、また太平洋戦争末期の松代大本営跡(象山地下壕)がある等、歴史的にも豊かな地であることから、私としては数ある「里山」の中でも特筆すべき存在として、大いに評価しているものである。それゆえ、いつか家族を連れて再訪してみたいと思っていたところであり、今日がまさにその良い機会となった。
 そして… 子供達とハンディートランシーバーで通話を楽んだりしつつ、ノンビリ登っていってみると、多少曇り加減ではあったものの、頂上では期待通りに相当の眺望に恵まれ、結構爽快な気分を味わえた次第。また家族も「昨日の今日」であった割には、特に「疲れた」等の不平を述べる者もなく… やはり「山」は訪れれば訪れただけのことはあるものと、私は嬉しさと共に、内心ほっとした気分をおぼえていた。







 また「ぐんま百名山」に〜石尊山と戸谷山
 このところ冬の割に比較的暖かで雪も少なく、過ごしやすい日々が続いている。2/7の土曜日も相変わらず穏やかな気候ゆえ、例によって家族で軽い山歩きを企てる。今回の訪問先は、群馬県の「石尊山」。長野新幹線の「安中榛名」駅にほど近いあたりに位置し、その名の通り石尊信仰の地で、頂上には石祠が多くあり、例の「ぐんま百名山」にも選定されている。また、軽井沢にほど近い位置にあるので、ほんの5日ほど前に小規模噴火した浅間山の噴煙を上げる姿を山上から拝めるかも知れないとの期待感もあった。
 そこで、早速自宅発、同山の山麓に車を走らせると、現地の案内標識に「石尊山」の他「戸谷山」という名も見出す。その方は「ぐんま百名山」ではないが、折角来たのだし、時間があったら後で立ち寄ることにして、まずは石尊山へ。
 路傍の石仏や石祠を時折目にしながらの急登をしばし、頂上に達すると、そこには事前情報通り、多くの石祠が鎮座していた。が、周囲は樹林に覆われ、展望は思ったほど良くない。内心残念に思いつつ一旦下り、次いで先に見出した標識に従い、戸谷山へと向かう。
 この戸谷山、「山」としての雰囲気的には、むしろ先刻の石尊山より明るく、また標高的にも高いのだが、どうも頂上に無線施設が設置されていることが主に災いして「ぐんま百名山」に選定されなかったものらしい。しかし、頂上からの展望的には確実に先の石尊山より優れており、私もここで、ようやく当初の希望通り、噴火後間もない浅間山の白煙を上げている姿を目にすることができた。







 「ぐんま百名山」50峰目の訪問〜甘楽町・天狗山
 先日来、私は「ぐんま百名山」に興味を惹かれ、折しも冬季で積雪の少ない上州方面に足が向きがちとなっているが、自分はその「ぐんま百名山」に何峰登っているか試みに数えてみたら、先日2/7の石尊山で49峰となっていた。となると、後1峰登ればちょうど半分の50峰に達する! というわけで… 2/11、久々の記念すべき区切りの山として、甘楽町にある「天狗山」を選定。
 ここは「山」としてよりは、むしろ頂上直下にある「白倉神社」で有名らしく、実際現地の山麓に車を走らせてみると、案内標識の表示が「お天狗山」となっていることからして、おそらくは古くから由緒ある天狗様の信仰の地なのであろうと容易に想像される。
 そんな山ゆえ、事前に少し国土地理院の地形図を眺めただけで、適当に登り口に至ることができたが、何条かあるらしい登り道の中、結果的に私がたどったのは「轟登山口」からのコースであった。鬱蒼とした杉や檜の植林の中の道を標識に導かれながら登って行くと、やがて稜線上の頂上方面と「白倉神社」方面の分岐点に出たので、まずは左へ進み、天狗山の頂上に立つ。周囲を樹林に囲まれ、展望もない地味な場所。
 頂上には長居せず、一旦分岐に戻り、次いで頂上直下の「白倉神社」へ。急坂を下り、ほどなく道が平坦になると、すぐ先の断崖の縁に社殿が危うげに建っているのを見出した。一種独特な風格あふれる社前に一礼して内部を除くと、巨大な天狗の面が壁に掛けられていて一驚。またここでは狛犬の代りに天狗の石像が威厳たっぷりに来訪者を出迎えていたり、木製の巨大な奉納剣が多く見られたのが興味深かった。







 今年初の訪問〜馴染の妻女山
 このところの暖冬異変は相変わらずで、ついに長野県でも各所で蝶の姿が見られたなどという記事が新聞に載るようになった。2/15もまた温暖な気候ゆえ、もしかしたら、どこかで目覚めた越冬ヒオドシチョウくらい見られはしまいかと思い、特にどこという目的地も定めないまま自宅発、まずは気の向くまま、昨年蝶の観察にしばしば訪れ、私にとってはすっかり馴染みとなった妻女山に試しに訪れてみた。
 で… 招魂社の境内で家族を遊ばせておきながら、しばし陽だまり中心に付近を歩き回ってみたが、さすがに同じ長野県内でも、北部で今頃舞う蝶は余程の例外だったとみえ… 残念ながら蝶のチの字もないので、ほどほどで諦め、展望台に上がって周囲の山々などの展望を楽しむ。
 実際この山、たとえ蝶の姿がなくとも、良好な展望や川中島合戦がらみの歴史性など、私にとっては魅力十分の地なので、訪れた甲斐は十分あり(注:下掲の写真はいわばその証拠の一部)。さて、果たして今年は何回ぐらい、ここを訪れることになるだろうか…?






 久々の訪問〜上田市・坂城町境の太郎山
 2/15、先に妻女山に訪れた後、まだ時間は十分あるし、温暖で長閑な晴天も変わらず… となると、折角だからもう少し「山」らしい山に訪れてみたくなる。そこでにわかに思案の上、平成18年の5/14に訪れて以来、御無沙汰している上田市・坂城町境の太郎山訪問を思いつく。
 今回は午後の訪問でもあり、時間的にやや短くて済む坂城町側の林道からのコースを選択。この山、これまでにも何度か家族と共に訪れており、私にとっても家族にとっても勝手知った気楽さがあるが… それでも念のため、熊鈴だけは忘れずに携行し登り出す。また、最近アマチュア無線の免許を取得した長男と次男の期待にも応えようと、家族を2組に分け、若干時間差で歩き始めてハンディトランシーバーで交信しながら行くこととし、虚空蔵山との鞍部からは、女房と長男次男らが「太郎山神社」経由で行ったのを確認した上、私と長女は頂上に尾根通しに直登するルートを行く。と… やはり直登ルートの方が早く、神社回りの組よりも私の組の方が若干早く頂上に到着。陽だまりの草付きの中、鎮座している素朴なお地蔵様に一礼し、軽く汗ばんだ額を拭っている頃、神社回りの組もようやく登ってきたので、それからしばし憩いの時を過ごす。
 それにしても、この日はとても真冬とは思えないほどの温暖さで、私など登りの途中から半袖で十分だったほど。例の地球温暖化というものの一つの現れででもあろうか… などと思いつつ、ふと樹間から烏帽子岳の方面を見やると、その山稜の右手奥に、去る2/2に噴火した浅間山から(注:浅間山自体は山稜の背後に隠れて見えないが…)、間欠的に立ち昇ってくる白煙が望見されたのが珍しかった。







 悲惨な落城史あり〜豊野大倉の城山(大倉城址)
 2/15の太郎山訪問時には、このまま春になってしまうのではないかと思うほど温暖だったのに、その後急に寒さがぶり返したせいか、ついに我が子達が相次いでインフルエンザでダウンしてしまい、3/1も、折角の週末なのに家族で外出もできぬ有様。とはいえ、ただ家で無駄に時を過ごしてしまうのも惜しく… せめて近在の軽い山にでも訪れてみようというわけで、その時点で健康な長男と次男のみ伴い午後に自宅発。
 今回の訪問先は、戦国時代の山城址で、旧豊野町(現:長野市)大倉にある大倉城址。ちなみに山名は『長野縣町村誌 北信篇』の「大倉村」の項に「城山」とあり、明確に特定できる。天正10年(1582年)4月、織田信長配下の森長可が海津城に入った際、上杉景勝の支援を受けた芋川親正らの一揆が蜂起し、長沼城を襲ったが、森長可に討伐され、大倉城に籠ったものの激戦の末落城し、在城の妻子も含めて夥しい戦死者を出したといわれる。(注:もっとも芋川親正はからくも越後に逃れ、後に牧之島城の城将となったという。)
 そんな歴史を伴う地だけに、子供達同伴とはいえ、あまりはしゃぎ回るのは憚られたものであるが、それはともかく、純粋にここを山城の遺構として見た場合、空堀や郭などの遺構の保存状態はかなり良好で興味深いものがあった。殊に二の郭上部の石積の遺構や、また井戸郭にある井戸の遺構などが珍しく、400年以上も前に構築されて今日まで風雪を経てきたものとは思えないほど。信州には、まだまだこのような忘るべからざる歴史を伴った興味深い山が数多くあるに違いない。果たして今年は、そのような地をいくつ発見できるであろうか…?







 展望目当てに寄り道〜辰野町の大城山(大城址)
 3/8、この日はたまたま所用で、インフルエンザの次女を除いた子供達と一緒に諏訪市から箕輪町方面にかけて訪れていたが、天候きわめて良好、折角出掛けてきたのだし、貴重な週末の時間をただ所用だけで失ってしまうのも惜しい… というわけで、箕輪町からの帰途、辰野町の「大城山」に立ち寄っていくことに。その名の通り、戦国時代の山城址のある山で、私は過去何度か訪れたことがあるが、頂上直下まで車で上がれる手軽な山にして、その頂上から南方を中心に開けた展望には捨て難いものがあるので、晴天下、ちょっとその眺めを楽しんでいこうというわけ。
 もっとも例年なら、この時季、同山に通じる車道はまだ積雪で途中までしか上がれないものだが、今年は記録的に雪が少なかったせいか、幸い終点の駐車場所までどうにか上がることができた。そして、すぐに駆け上がった頂上からは… 期待通り、眼下の辰野町の街並みはもとより、その周囲をとりまく南アルプスや中央アルプスなどの山なみ! 殊に南アルプスの甲斐駒ケ岳や仙丈ケ岳、中央アルプスの木曽駒ケ岳の眺めが良く、限られた時間の中での寄り道ながら、例によって山は訪れれば訪れただけのことはあるものだと、またしても確認できた次第であった。






 今年初めて「蝶」に遭遇〜長野市の茶臼山
 今年もはや3月も半ばとなり、ようやく子供達のインフルエンザ禍も終局を迎えたが、それと入れ替わるかのように、今度は「花粉」の最盛期となった。かくいう私もかなり前からその被害を被っているもので… よりによって山好きが花粉症とは皮肉な話だが、それでも山歩きをやめる気がないのもまた事実。で… 3/15、長閑な週末の一日を、長野市の茶臼山公園で過ごすことに決める。
 無論そう決めたのには、それなりの理由があり… つまり、このところ子供達が次から次とインフルエンザでダウンしたため、家族全員そろって外出できるのは実は久方ぶりのことなので、子供達にもそれなりに楽しめる場所で、かつ子供達を遊ばせておく間に、私自身がちょっと山に登って来れるような場所への訪問が望ましく、となると、茶臼山公園は正にそれにうってつけであったからだ。
 そこで、我々は昼少し前に同公園に訪れ、まずは家族全員で弁当を広げた後、私は長男と次男を伴い、茶臼山頂上を往復してくることに。折しも結構温暖な気候の下、あるいは越冬から目覚めた蝶の姿を今年初めて目にすることができるのではないか、などと淡い期待を抱きつつ行くと、果たして頂上直下の陽だまりで、ヒオドシチョウらしき影が頭上をよぎり、はっとして周囲に注意すると、今度はテングチョウが落葉の上からパッと舞い立った。やはり目覚めていたかと嬉しく思いつつ、熊鈴を鳴らしながら樹林の中の頂上に到着。私には4年近く前に訪れて以来の久々の頂上だったが、当時に比べ、道も案内標識もよく整備されており、近年の里山に対する地域の関心の高まりが実感されて感無量だった。