山行記録帳(2007)E
〜Yamazaki's Photo Diary 2007,E〜


 【山行リスト】
 樹幹の熊の爪痕に肝を冷やす〜黒柏木  余剰時間に〜小諸飯綱山(富士見城址)
 ちょっと気になる長野の山城址巡り@〜北郷本城址の城山
 ちょっと気になる長野の山城址巡りA〜桝形城址の城山
 軽井沢町近辺の里山巡り@〜城山(見晴台)と旧碓氷峠・熊野神社
 軽井沢町近辺の里山巡りA〜旧軽井沢付近の愛宕山
 軽井沢町近辺の里山巡りB〜御代田町の森泉山
 爽快な山かと思いきや〜万仏岩と阿弥陀堂  草薮の中の寂寥〜朝日山(岩井城址)
 台風一過後の晴天〜安曇野市の長峰山  家族で軽く散策〜筑北村の城山(青柳城址)
 15年ぶりの訪問〜筑北村の四阿屋山  雨の合間に〜南牧村・1,303m峰と1,265m峰


 樹幹の熊の爪痕に肝を冷やす〜黒柏木
 10/13、坂城町と上田市(旧真田町)との境にある「黒柏木」という変わった名の山に訪問。この山、「姨捨山に照る月」が昇る山として知られている「鏡台山」から、南東に派生する山稜の続きに盛り上がっている峰で、一般には鏡台山の陰に隠れてあまり目立たない存在の山のようだが、私の場合、「黒柏木」などという面白い名に惹かれたものである。(注:この山名については、国土地理院の地形図上には記載がないが、坂城町・坂城町教育委員会発行『さかきふるさと100選』所収の里山コースガイドには「黒柏木」と明記されており、本稿もその呼称によった。)
 この日は、たまたま女房の実家から母親が出てきて、小諸の「懐古園」あたりに電車で遊びに行きたいとのことで、当然我が子供達も皆ついて行くものと思ったところ、どうした加減か、次男だけがなぜか山に行きたいという(!)。それで結果として私が次男一人を連れ、どこか軽い山に登った上、昼頃までに懐古園に下りて他の家族と合流しようという話になったのだが… そんな入り組んだ事情ゆえ、例によってあまり時間的に余裕がない。そこで、どこか短時間で行ける所はないかと思案の末、たまたま今まで登り残してきたこの山が、にわかに頭に浮かんだ次第。
 で… 和平付近の登り口から、早速次男を連れて登り出したが、行くにつれて、道脇の樹幹の随所に残る熊の爪痕がやたらと目につく。思わず腰に提げた熊避け鈴に手をやりつつ歩き、登り口から30分ほどで頂上着。そこは展望不良の樹林の中、標識があるだけの地味で狭い場所で、当然長居には適さぬゆえ、ややあって下山に移ったが、登り口近くまで下ったへんで、たまたま会った茸採りの人の話によれば、何でも今年になってからもう2〜3度もこの山中で熊を見掛けたとか(!)。もっとも我々は幸い御本尊には遭遇しないまま、無事登り口まで戻った。







 余剰時間に〜小諸飯綱山(富士見城址)
 10/13、先の「黒柏木」への訪問後、私と次男は小諸市の「懐古園」で家族や女房の母親と合流し、市内で昼食を摂ったが、その後もまだしばらく時間があるので、折角だからと近くにあって幼少の子供連れでも適当に遊べる楽な山〜小諸市の飯綱山(富士見城址)に訪問。
 この山、頂上近くに「小諸高原美術館」があったり、また頂上周辺の城址も「歴史の広場」として整備されているなど、今や公園化しているので、「山」としては多少物足りない感は否めないが、それでも今回のように、時間的に中途半端だったり、また同行者に幼少の子供を含んでいたりする場合の訪問先としては、実にうってつけの場所である。また、中世の山城址としても、かなり顕著で大規模な石積みの遺構が見られたり、さらに信濃史学会編『信濃史学会研究叢書3 信州の山城』(信毎書籍出版センター刊)によれば、この城、徳川氏の第一次上田攻めの際に、徳川方の陣城として利用されたというなど、まさに「歴史の広場」の名に恥じない、見応え十分の歴史探訪スポットでもあるのだ。
 これで空模様が快晴なら、東に浅間山方面の眺めが最高で申し分ないところなのだが… 残念ながらこの日は若干曇り加減で、浅間山方面の山稜には雲がかかって今ひとつ。それでもなお眼下に小諸市街や、またその背景に佐久の名峰茂来山などの眺めは良好で、我々はそんな開放的で長閑な雰囲気の下、しばし憩いの刻を過ごした。







 ちょっと気になる長野の山城址巡り@〜北郷本城址の城山
 10/14、この日は日曜日ながら、午前中を何やかやと所用のうちに過ごしてしまい、午後だけが中途半端に残ってしまったが… この際折角の貴重な時間を無駄にすまいと、普段なかなか行く機会のない、長野市内のあまり目立たぬ山城址の山に訪れてみようと企てる。
 そこで… まず最初の目的地として選定したのが、浅川から飯綱高原に上がる途中の北郷集落付近にある「北郷本城址」。この城址、『長野縣町村誌 北信篇』中「北郷村」の「古跡」の項に記載がありながら、何故か長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』には記録のないものだが、『長野市誌』第12巻資料編では市内の主要城郭のひとつとして各説に採り上げられており、一見地味ながら見逃し難い存在。ちなみに先の『長野縣町村誌』によれば「里俗高坂氏の築く所なりと云ふ。」とのことだが、本当のところは未だに詳細不明のようだ。
 アプローチは長野市浅川沿いの「浅川ループライン」を上がり、北郷集落付近に達したへんで左に折れて北浅川の対岸に渡り、後は細い道を道なりに進んで、最も高いへんに達したところから、すぐ左手の山稜に取り付く。それが北郷本城址の城山頂上から西に派生する尾根の末端で、後はそのまま尾根通しに登るだけ。この山、以前は相応に登る人もあったとみえ、尾根上には結構明瞭な踏跡があるが、しかし最近はあまり訪れる人もないらしく、やや鬱陶しい薮の中の進行。それでも、距離的には短いので、尾根筋を外さなければ全く心配なく、そのうち堀切や郭の遺構を見て、最後に主郭直下の切岸を登り切ると、そこが主郭背後の土塁の上の最高点。例によって周囲は樹林で展望もなく、頂上一帯は一面の笹原で、標識一つない地味な場所だったが… それでも山城址の山かつ寂峰趣味の私には、それで十分興味深い場所だった。






 ちょっと気になる長野の山城址巡りA〜桝形城址の城山
 10/14、先の北郷本城址の城山への訪問後、まだ多少時間があるので、陽の短い季節ではあるが、さらに別の山城址に訪れてみることとし、私は登り口に向けて車を走らせた。次なる目的地は同じく長野市内にある「桝形城址」。地滑りで有名になった地附山から北東に派生する尾根上の小峰に位置し、『長野縣町村誌 北信篇』中「上松村」の「古跡」の項に記載がある。山名については『長野縣町村誌』では「村の北方地附山嶺北隅にあり」とあるだけで特に記載がないが、長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』や『長野市誌』第12巻資料編によれば、城址の所在地は「上松字城山」とあるので、本稿でもそれに従うことにする。
 この山、位置的に本来なら地附山とセットで訪れればよい所なのだろうが、今回の場合、夕刻近く時間的に余裕がないので、大峰山(大峰城址)への入口から、かつて戸隠バードラインの一部だったアスファルト道(注:地滑りのため今は閉鎖されている)を徒歩でたどり、地附山の北東尾根に達したところで左の林内に分け入り、城址を往復。尾根と旧バードラインの交差地点には、当時茸採り等の安全通行用に設けられたらしい陸橋が道をまたいでいるので、すぐ判る。城址はそこから目と鼻の先で、ほんの10分程度も踏跡をたどれば、もう頂上の主郭址。付近はまたまた例によって樹林の中で展望もなく、標識すら見当たらなかったが、それでも周辺には小規模ながら比較的複雑な土塁等の遺構がみられ、先の北郷本城址と同様、『長野市誌』第12巻資料編で市内の主要城郭のひとつとして各説に採り上げられているだけのことはあると思った。






 軽井沢町近辺の里山巡り@〜城山(見晴台)と旧碓氷峠・熊野神社
 10/20、この日は土曜日ながら、たまたま前夜が土砂降りの雨だったことから、特に山歩きの予定もしていなかったが、朝起きて外を見ると、案外明るい天候ゆえ、にわかに家族同伴で、ドライブついでに軽い山々に散策に出掛けてみようと企てる。その際、私の頭に浮かんだのが、軽井沢町周辺に点在する、ちょっと気になる里山の数々。単独で目指すにはいささか物足りないが、かといってそのまま見過ごしにもできない山々に、この際時間の許す限り、散歩気分で訪れてみようというわけ。
 で… まず訪れたのが、旧中山道碓氷峠付近にある「城山」。一般には「見晴台」と呼ばれ、現地案内板によれば、大正7年に名古屋市の近藤友右衛門氏が観光開発したという地であるが、往古より交通の要衝であったためか、戦国時代には例によって狼煙台が設けられていたとのこと。ちなみに『長野縣町村誌 東信篇』中「峠町」の項には「城山」の名のままで「古跡」として記載されており、「蓋し古昔戰國に際し、烽火陣營等の設けありて、非常の虞に備ふる所なるべし。相傳ふ正平年間、笛吹神官、滋野八郎一族三十六人を率ひ、官軍に屬し、當山に戰ふ云々 後太平記三十一卷に見ゆ 右滋野八郎其際該所に據りたりと。里老の口碑に存す。」とある。頂上からは浅間山や妙義連峰などの眺めが素晴らしい。
 なお、折角訪れたので、我々は峠の茶屋で名物峠の「力餅」で一休みしたり、また日本武尊が弟橘比売命を偲び「吾妻はや」と嘆かれた地とされる「熊野神社」(注:このあたりが普通「碓氷山」と呼ばれている)に立ち寄ったりして、しばし憩いの刻を過ごした。







 軽井沢町近辺の里山巡りA〜旧軽井沢付近の愛宕山
 10/20、先の城山と旧碓氷峠付近を散策後、我々は一旦旧軽井沢に下りたが、ちょうど昼食時が過ぎた頃合だったせいか、旧軽井沢の街中は大勢の人で賑わっており、車での通行に散々苦労する有様… まあ、軽井沢の雑踏は今に始まったことではないが、それにしても我々は半ば唖然としつつ、次なる目的地である「愛宕山」へ。実はこの山、たまたま昨年の10/8、和美峠東にある愛宕山に訪れた後、付近の地形図等を確認しているうち、旧軽井沢付近にも同名の山があるのを偶然見出したもので、以来、参考までに一度訪れてみたいと思っていたところだが… しかし人混み嫌いの私にとって、あの旧軽井沢を車で通過しなければならないというのが何となく億劫で、今までなかなか足が向かなかったところ。然るに今日は、我々はその旧軽井沢に車で来ているので、後でもう一度同じ苦労をしなくてもいいよう、この機会に訪れておくに限るというわけ。
 もっともこの山、道は細いが何とか頂上直下まで車で上がれるので、これまた先の城山と同様、幼少の子供連れでもノンビリ散歩気分で歩ける所。車道の終点には「三笠成田山」の立派な鳥居が寄進されており、そこからは手すり付きの木階段が朱に塗られた頂上の社殿前まで続いている。難なく頂上に立ち、社前に一礼してから周囲を見回すと、そこは麓の雑踏とは別世界のごとく静寂で、右手に四等三角点標石と、「中里藤雄翁」の像があり、その傍らにはまるで社殿の色に合わせたかのようなフシグロセンノウの朱色の花が点々と咲いていた。






 軽井沢町近辺の里山巡りB〜御代田町の森泉山
 10/20、先の旧軽井沢付近の愛宕山への訪問後、我々はまた旧軽井沢の街中に下り、群れ歩く人混みを何とかかわして国道18号に脱出し、後はそのまま上信越自動車道の佐久ICあたりで高速に乗って自宅に戻るつもりでいたが… たまたま旧軽井沢からの脱出用に利用したカーナビゲーションの地図に「森泉山」の表示が見えたことから、またまた私の悪い腹の虫がうずき出す。まだ明るい、行けるではないかと(!)。
 この山、実は私はかなり以前から山名だけは知っており、いつか参考までに訪れてみようと思いつつも、国道18号線から外れた位置にあるため、なかなか訪れる機会を得られずにきたものである。それが今回、よくカーナビの地図を見ると、実はこの山、佐久ICに割と近い所にあり、帰りぎわの寄り道に最適なように見えたのだ。それで、私は早速カーナビの目的地をその森泉山に合わせ、後はそのまま指示通りに車を走らせた。
 と… 何と、この山もまた、先の旧軽井沢付近の愛宕山と同様、頂上直下まで車で上がれてしまった(!)。特に事前情報もないままの訪問だったため、当初はそれでも30分くらいは歩かねばなるまいとの腹づもりでいたのだが、いざフタをあけてみると、頂上直下の駐車場からほんの5分も歩いたら、はや三角点のある頂上に達してしまった。然るにそこは、周囲は樹林に囲まれて展望は今ひとつ、また頂上を示す標識もないという、開発された山の割には地味で静寂な雰囲気なのが妙。当然、長居には適さないので、すぐに駐車場に戻ったが、駐車場からは浅間山方面の眺めが開けているし、またやや下には「弁天池」なる小池があるなど、時季を選べば案外長閑でいい所かも知れないなどとも思われた次第。






 爽快な山かと思いきや〜万仏岩と阿弥陀堂
 前日はかねて懸案の軽井沢近辺のちょっと気になる里山を思いがけず3箇所も回ることができたが… しかし、それらの山々、いずれも頂上近くまで車で行けてしまう山ばかりで、いささか物足りない気分は否めず。そこで、翌10/21は、是非ともある程度以上の歩行時間を伴う山に行こうと思っていたところ… たまたまこの日は、家族が皆申し合わせたように家にいたいというので、案外私一人で山に行けることに。
 となると、折角の機会、普段家族連れでは行きにくい山をというわけで、これまで岩場があるというので家族での訪問を控えてきた飯山市の「万仏岩」への訪問を企てる。ここは最近製作されて話題を呼んだ映画『阿弥陀堂だより』のロケセット復元の阿弥陀堂から、さらに東にさかのぼった所にあり、その登り道には「万仏」の名から連想される通り、随所に素朴な西国三十三観音の石仏がみられ(注:昭和61年飯山市有形民俗文化財に指定)、また目的地の「万仏岩」の縁にはお堂が建ち、その右手の洞窟内には大日如来と弘法大師の各坐像が安置されているという。
 そんな地なれば、多少岩場があろうと、相応に道は整備されているだろうと思い込んで行ったのだが… 実際には何と入口からして草薮深くて不明瞭な有様。それでも上部では薮が薄くなることを期待して、何とか踏跡を拾いつつ進んだが、思いに反し、薮はますます鬱陶しくなるわ、おまけに所々倒木で道を遮られるわと散々。予想以上に大汗をかいた末、やっとの思いで目指す「万仏岩」のお堂の前に達してほっと一息、件の洞窟の大日如来と弘法大師も拝めて一応の目的は達したが… さらに左に上がっているという奇岩巡りのルートは、それまでにもまして深い薮と倒木で踏跡不明瞭、おまけに前夜雨が降ったらしく足元不安定ときており… 今回のところは残念ながら、それ以上の登行を断念せざるを得なかった。







 草薮の中の寂寥〜朝日山(岩井城址)
 先刻の万仏岩への訪問後、私は山麓にある映画『阿弥陀堂だより』の復元ロケセットを見物してから長野市側に木島平村経由で少しずつ戻っていったが、時間にはなお多少余裕があるし、できればどこかもう一箇所… などと思いつつ車を走らせているうち、ふと木島平村と中野市との境が近いあたりで、見るからに山城址でもありそうな山が目についた。私は実のところその時点では、その山の名すら知らなかったが、そんな山でも、訪れてみると意外な発見があったりして、存外面白いものゆえ、にわかにそこへの訪問を決意、早速その方向へと車を走らせる。
 目的の山から北西に派生している尾根の末端あたりから、細い道を少々上がると、神社の上段に広い駐車スペースがあったので、そこに駐車し、尾根伝いに歩き出す。と、最初は墓地の中を突っ切り、ほどなく気持ちのいい尾根伝いの林間の道に。この道、どうも電力会社の送電線巡視路を兼ねているようで、非常に整備状態が良く、しばらくは大変気持ちよく歩けたが、送電線巡視路だけに、さすがにわざわざ頂上までは通じておらず、そのうち道が尾根から右に外れ加減に下ってゆくあたりから、左の尾根の踏跡に入って直登せざるを得ず。とどのつまりは先刻の万仏岩と同様、ここでまた薮の中を行くハメとなったが… しかしこの道、意外にも急斜面には木階段があるなど、以前一度整備された形跡あり。そのうち予想通り中世山城址の特徴である空堀や切岸の遺構を数箇所見つつ、頂上に達すると、そこには意外や「塔の原ふるさといこいの場委員会」で設置した「吉の城(別名岩井城)」の案内看板を見出す。これにより、ここが川中島合戦当時に越後の上杉方の一拠点であったことが知れたが、反面、ここも以前は地元の人々によって整備されていたが、いつしか寂れてしまったらしいことも知れ… 私は一抹の寂寥感を禁じ得なかった。







 台風一過後の晴天〜安曇野市の長峰山
 10/28、家族で安曇野市(注:旧明科町)にある手軽な里山、長峰山に訪問。この週末はたまたま前日の27日(土)が台風接近の影響で一日中雨で、翌28日(日)は雨もあがって晴れ間も見えたものの、どうも台風の大雨直後というのは、さすがに私にも山の方はあまり気が進まず… かといって折角の休日でもあるので、午前10時頃から昼過ぎまでにかけては家族そろって温泉三昧で過ごした。
 しかし… 昼食後に空を見ると、午前中よりもさらに青く晴れ渡り、直接陽に照らされると汗ばむほど。こうなると私も、折角の休日をただ温泉ばかりで過ごしてしまうのも惜しくなり… 家族の了解を得て、ちょっと手軽に山の気分を味わわせてもらうことに。
 で… にわかに車を走らせたのは、こんな場合によく訪れる、勝手知ったる長峰山。この山、ほとんど頂上近くまで車で上がれてしまう山ながら、晴れさえすれば、西の方に拡がる常念岳をはじめとした北アルプスの大展望が筆舌に尽くし難いので、私には南隣の光城山と共に、今回のように時間的に余裕がない場合の訪問先として重宝する存在なのだ。特に今日は台風一過後の晴天、必ずや頂上からは眼前に北アルプスの大パノラマが展開するはずだと期待しつつ訪れてみると… 案の定、狙い通りの大展望!
 間近の常念岳はもとより、北に聳える後立山連峰の面々、殊に美しい双耳峰を見せる鹿島槍ヶ岳の優美な姿など… いつも変わらぬその情景を一通り眺めつつ、私は休日をより有効活用できたことに少なからぬ充足感をおぼえていた。







 家族で軽く散策〜筑北村の城山(青柳城址)
 11/3、家族全員で筑北村(旧坂北村)にある「城山」(青柳城址)を散策。この日は例年天候が良いことで知られる「文化の日」、当然「山」の方にも絶好のコンディションを提供してくれることであろうと期待していたのだが… こういう時に限って(最近いつもそうだが… )折角の期待通りの晴天の一日も、子供がらみの行事で午前中が丸潰れ。陽の短い季節、これでは到底長時間の山歩きは望めないが、それでも空は依然として抜けるような青空、さればせめてどこか眺めの良い軽い山でも歩いて、多少なりとも「山」の雰囲気を味わいたく… にわかに思いついたのがこの山。ここなら幼少の子供同伴でも安全かつ短時間で歩けるし、しかも条件さえ良ければ、頂上本郭址から北アルプス連峰の大パノラマを望むこともできるとあって、正に今回のような場合の訪問先としてはうってつけ。結局、昼過ぎに自宅を発ち、可及的速やかに登り口へ。
 模擬復元の櫓門をくぐり、明瞭に残る空堀や郭の遺構を見つつ、期待と共に頂上へ。と… 残念! 期待の北アルプス連峰にはまるで着衣ででもあるかのごとく雲がまとわりついていた上に、ちょうど午後で逆光となる位置関係のせいもあり、稜線すら明瞭に判別できない有様、わずかに餓鬼岳あたりが雲の上に薄くその姿をかろうじて見せてくれていたのみ。それでも、子供達はそんなことにはお構いなく、頂上の結構広い青柳城本郭址の平地を歓声を上げつつ活発に飛び回っており… 今日はまるで子供達のためにあるような日だったなと内心苦笑した次第。







 15年ぶりの訪問〜筑北村の四阿屋山
 11/4、家族全員で筑北村にある名峰・四阿屋山に訪問。「筑北三山」の一峰に数えられるこの山に、私は以前一度訪れたことがあり、それもつい最近のことのような感覚でいたが… 下山後に調べてみたら、何と平成4年以来、実に15年振りの訪問であったので驚いた。時の流れというのは存外早いものだと、改めて実感させられた次第であるが… そんな今回の同山行を決意したきっかけというのが、また変わっていて… 昨日訪れた青柳城址の駐車場に、長女が靴を脱いだまま置き忘れてきてしまい、それを取りに行くハメになったところ(幸い靴はそのまま現場に残っていた)、そのついでに、近くにあるこの山に久々に訪れてみようということになったのだった(!)。しかし、きっかけはともかく、どうもこのところ、あまり登りでのない山ばかり続いているので、今回は私にとって、相応に歩行時間も要する山に登ることができた良い機会ではあった。
 また、今回は現地の案内標識に従って車を走らせ、偶然目についた「刈谷沢登山口」からのルートを採った。これは私の15年前の「金山沢」からの道とは別ルートであるが、結果的には今回のルートの方が、途中で「四阿屋山展望台」なる明るい一角があり、北の聖山あたりから西の北アルプス方面にかけての展望に非常に優れているのを知ることができて収穫だった。また、たまたま頂上で出会った方と話をしたところ、何とこの方、先の「展望台」に2004年に据え付けられたという山岳展望図の案内板を製作された方とのこと(!)、久々の思いがけぬ山での出会いが大変嬉しく思われたのと同時に、15年前にはこの山への案内標識の類など、まるで見当たらなかった上、地元の人に道を聞いてもまるで要領を得なかったのと比べたら、最近の里山見直しの機運の高まりゆえか、大分状況が変わったものだとも思われ、うたた感慨にたえなかった次第。







 雨の合間に〜南牧村・1,303m峰と1,265m峰
 11/10、この日は折角の土曜日だったにもかかわらず、朝からどうも思わしくない天候。こんな場合、わざわざ雨の中を歩くのも嫌だし、まあ車でも上がれるような軽い山に行くしか手はない。それで今回は、昨年の3/11に海ノ口城址に訪れた際、樹間より西の方に望まれた、頂上に無線施設がある形の良い山のことをたまたま思い出し、あれなら頂上まで車道が駆け上がっているだろうと考え、試しに行ってみることに。
 と… 現実には楽どころか、小海高原GC付近の別荘地の錯綜した道に散々迷った挙句、途中で偶然会った地元の人に道を聞き、かなりダートな道を強引に上がって、ようやく頂上に達することができた。また、行ってみて初めて知ったのだが、無線施設のある山は2峰あり、「小海FM中継放送所」「南牧テレビ中継放送所」のある1,303m峰と、「NTTDoCoMo南牧無線中継所」のある1,265m峰があって、前者に三角点(注:標石はなし)があった。なお、これら両山とも茸山のようで本来は入山禁止らしく、私も偶然地元の人に会えたおかげで訪問できたようなものだった。
 ところで、これら両山の名前については地形図にはなく、地元の人も「さあ… 特に名もない山ですよ」と言っていたが、帰宅後に『長野縣町村誌 東信篇』をひもといてみたら、「海ノ口村」の「山」の項に「
笹目木山」(注:実際は「笠目木山」とあるが、『南牧村誌』中「南牧村の地名」の小字名には「笹目木」とあり、町村誌の「笠」は明らかに誤植と思われるので修正表記)として「山脈東は城山に連り、西は海尻村向山に接す。」とあり、かつ「海尻村」の「疆域」の項に「東は大戸谷山 一名向山と云ふ の嶺上を以て小海村と界し〜」とある。これでいくと1,303m峰が「向山=大戸谷山」、1,265m峰が「笹目木(さざめき)山」ということになりそうだが、今のところ裏付けが取れていない。今後引き続き調査したい。
 (追記:その後、さらに『南牧村誌』などを詳細に参照したり、南牧村役場に問い合わせたりした結果、ほぼ確実に1,303m峰が「向山=大戸谷山」、1,265m峰が「笹目木山」であると特定できるに至った。なお、役場の方の話によれば、1,303m峰は現在でも地元俗称で「向山(むかいやま)」と言われているようだが、1,265m峰の方は地元でも今や全くといっていいほど山名を知る人はない模様である。)