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【山行リスト】
岩稜伝いのスリルあふれる登行〜旧丸子町の鳥羽山(鳥羽城址)
残雪の中、明瞭な山城址の遺構〜旗古山(小野平城址)
雨天前の速攻〜大町市・松川村境の城山(西山城址)
白馬村・飯田城址(月夜沢城址)と秋葉山
北安曇随一の城館址〜白馬村・月夜棚(沢渡城址)
余剰時間の有効活用〜旧美麻村の尼子山
今年初の薄暮の山〜富士ノ塔山
薄暮の山第2弾〜頼朝山
久々の爽快な家族登山〜滝山と十観山
薄暮の山第3弾〜城山(吉窪城址)
早起きは三文の得〜高山村・城山(城山城址)
長閑な里山歩き〜千曲市・一重山(屋代城址)
偶然の発見〜千曲市・八王子宮と八王子山
薄暮の山第4弾〜観音山と郷路山
岩稜伝いのスリルあふれる登行〜旧丸子町の鳥羽山(鳥羽城址)
3/10、旧丸子町(現:上田市)にある鳥羽山に訪問。この山、例によって戦国時代の山城址(鳥羽城址)の山である他、同山の西麓に沿って流れる依田川が凝灰岩の山体を侵食し「立岩」と呼ばれる奇観を形成していることでも知られ、付近には「鳥羽山洞窟」なる縄文遺跡もある。
その鳥羽山に、今回私が訪れてみようと考えたわけは、去る2/25、依田川を隔てた向かい側の鳥屋城址(大年寺山)から、同山の小規模ながら岩稜も伴う結構堂々たる姿を目にしたことによる。山麓に車を走らせ、登り口物色の結果、「信濃二十八番札所 龍頭山竜福寺」の近くの「諏訪宮」境内の裏手の尾根から登ってみることとし… まずは急登を突破して稜線上へ、次いで右(南)へ稜線をたどって頂上を目指す。やや薮がちな踏跡を行くと、そのうち頭上を岩稜が取り囲む一角に出て、進行方向に当惑したが、ここは右にルートを採り、露岩もある急登を樹木にすがりつつ慎重に登り切って、ほどなく石祠のあるピークに出たが、頂上はまだ先。このあたりの稜線は西側が垂直に近く切れ落ちている痩せ尾根で、進むほどに下半身がゾクゾクする危険箇所ながら、その分、この山中では最も展望良好なスポット。殊に先日訪れたばかりの鳥屋城址の峰の端整な姿に心惹かれる。
その猛烈な岩稜を左手から慎重に巻いて突破すると、その先は樹林の中の穏やかな道。じきに明瞭な山城址の郭と土塁の遺構を見出すと、そのすぐ上が主郭址の頂上。三角点標石と鳥羽氏を祀る石碑があった他、特に標識もない静かな場所ながら、周辺の郭の遺構は明瞭。
なお、この日は諸事情により登り始めが遅く、はや薄暗くなり始めた中を先刻の危険な岩稜伝いに下る自信がなかったため、帰りはあえて東麓の「深山」集落あたりに下り、後は車道を歩いて登り口まで戻ったが、既に例の「鳥羽山洞窟」などを見物していく時間はなかった。
残雪の中、明瞭な山城址の遺構〜旗古山(小野平城址)
3/21、長野市小田切の「小野平」集落付近にある「旗古山」に訪問。この山、戦国時代の山城址(小野平城址)の山だが、例によって地形図上は山名が表示されていない上に、一見、陣場平山から東に派生する稜線上の単なる1支峰的イメージが強く、一般に「山」として認知されることはほとんどないようだ。実際、私としても、地元小田切観光協会の案内地図看板上にこの山の名を見出すまでは、その存在すら知らなかった。
この山にある城址については、『長野市誌』第12巻資料編の「第3編 城館跡・条里」の一覧表中「小野平城跡」の項によれば、すぐ西側の鞍部にある善光寺平と戸隠との境の峠の押さえの役割を担ったものらしいとあり、また「旗古城跡」とも呼称されているとあるが、先の小田切観光協会の案内地図看板上では、なぜか甲山の位置に「旗古城」の表示があり、「旗古山」の方には特に城址名の記載がないため、いささか混乱を来す。おまけに『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』では、この城の別称を「旗古城」ではなく「天神山城」としており(注:そういう名の城址は同じ小田切の「仏工伝」集落付近の「天神山」にもある)、ますます訳が判らなくなるのだが… まあ当面の呼称としては「小野平城址」で間違いなかろう。
この山の登り口の「小野平」集落付近は、かつて平維茂が鬼女紅葉征伐の途中に立ち寄ったとの言い伝えがある地。そこから目指す旗古山へは、同地の「浄蓮寺」から登ってみることに。寺の左手の道から歩き始め、一旦林道に出て、下祖山地区との境の峠に出たところで左手の山稜に上がり、後はその山稜をまっすぐ登りつめると頂上着。そこには明らかに物見櫓の跡と思われる一段高い土塁と、その上に三角点標石あり。特に標識や史跡の説明看板等の類はなかったが、それでも付近にはかなり顕著な郭が見られ、素人目にも明らかに山城址らしい場所だった。
雨天前の速攻〜大町市・松川村境の城山(西山城址)
3/24、大町市・松川村境の城山(西山城址)に訪問。この山、「塩の道」として知られる千国街道のすぐ西脇にあり、その上に戦国時代に築かれた山城は、かつて大町地方に君臨した仁科氏の直轄領の南の固めとして重要な位置を占めていたという。特に、天文20年(1,551年)頃からの甲斐の武田氏の北安曇侵攻に際し、この城の存在意義はますます重要の度を加えたと想像されるが、その割には仁科氏が早々に武田の軍門に降ったせいか、特に目立った実戦歴もない模様。ちなみに南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)等の文献によれば、この山城の主は仁科氏配下の矢ノ口筑前で、天正9年(1,581年)に高遠城に移ったといい(注:この翌年、高遠城は織田の大軍の猛攻により、守将の仁科盛信以下ほとんど全滅して壮絶な落城を遂げる!)、仁科氏の滅亡後はその使命を終え、廃城になったとされる。
さて、この日は、たまたま午後に天候が崩れるとの天気予報だったため、何とか降り始める前にという、いささか慌しい気分の下での訪問。もっとも、登り口から頂上までの所要時間は存外短く、三の郭(「天恵松」、「三峯社」祠、島木赤彦先生歌碑等あり)〜二の郭(北安曇郡歌の歌碑等あり)〜「鐙掛松」(残念ながら枯死状態)〜と経て、頂上の一の郭(「城山神社」社殿等あり)まで、「西山城址保存会」により大変良く整備された道を、ほんの30〜40分程度で難なく達した。展望は北東方向の一部を除き、樹林に遮られて今ひとつの頂だが、その代わり切岸や空堀など、城址の遺構はきわめて明瞭に残されており(ことに二の郭の背後の空堀の深さには驚嘆)、今にも降り出しそうな空の下ながら、充実度の高い山の一時だった。
白馬村・飯田城址(月夜沢城址)と秋葉山
4/7、白馬村神城にある北アルプス前衛の峰「月夜棚」の一角にある戦国時代の山城址(飯田城址/月夜沢城址ともいう)などに訪問。「月夜棚」とは一風変わった名の山だが、その名の通り、北アルプス小遠見山から天狗岳あたりの山嶺の前衛に、あたかも棚の如く平坦な地形を見せている一角で、名前から連想する限り、月夜にその「棚」の上から見上げる美しい星降る夜空の情景などが自然にイメージされてきて… 果たして現実にはそこがどんな所なのか、私などはどうしても自身の目で確かめたくなってしまうのだ。
そこで、早速白馬村神城の飯田集落あたりに車を走らせ、旧千国街道沿いの「飯田犬川端庚申塚石仏群」のあるあたりで地元の人に道を尋ねてみると、庚申塚より数百m南に行ったあたりで大糸線の鉄道をまたげば、そこから尾根通しに道があるが、途中、秋葉様の神社の祭られている峰から先の道の状態は不明とのこと。ともあれ、教えられた通りに尾根に続く道に取り付くと、そのうち鳥居をくぐり、ほどなく「秋葉神社」などの祠がある峰(秋葉山)へ。道は祠の裏手にさらに続いており、山城址らしく数条の空堀を乗り越え、さらに尾根通しに高度を上げていったが、そのうち無線施設を通過したへんから、道の両側から迫る薮が鬱陶しい登行に。無論それも覚悟の上、とにかく枝をかきわけながら登り続け、どうやら平坦な尾根上に飛び出ると、そこが三角点地点。例によって城址説明板もない静かな雰囲気の場所だったが、ただその地点の片隅の樹幹に、外れかけた「トレッキングコース」の古い道標があったので、以前はもっと良く整備されたルートだったのだろうと想像される。なお、付近の最高点は三角点地点よりやや奥の尾根上にあったが、樹間から小遠見山方面の白銀の山嶺が望まれた以外、やはり特に目につくものもない、静かな雰囲気の場所だった。
北安曇随一の城館址〜白馬村・月夜棚(沢渡城址)
先の(4/7)飯田城址等への訪問後、私は一応「月夜棚」への訪問を果たしたものと考えて自宅に戻り、同城址等に関する参考文献に目を通しているうち、にわかに気になることができた。というのは… 『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の城館跡一覧表によれば、飯田城址の所在地(旧地名)は「神城村字飯田」だが、その南の沢渡城址は「神城村大字沢渡字月夜棚」となっており、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)も同様の記述になっていたからだ。地形図上では「月夜棚」とは飯田城址のあるあたりから、若干南の沢渡城址のあるあたりまでの平坦な峰の続く一帯であるように見えるため、私としては一帯の最高点である飯田城址の峰を優先して訪れたわけだが(実際、4/7には地元の人もそちらの道を案内した)、地名から判断する限り、古来地元で言うところの「月夜棚」とは、飯田城址の峰よりむしろ南の沢渡城址の峰の方ではないかとの疑念が生じたのである。となると… 私としては、どうしても気になる。しばし悶々とした挙句、結局翌4/8、疑念解消に「再出撃」するハメに。
もっとも、例によって登行路は定かならず、地形図上で検討の結果、沢渡城址の峰の直下の砂防堰堤あたりまで通じている林道を利用し、後は谷筋を登りつめて「棚」の上に出ようと見当をつけ、早速その通りにたどってみると、幸いにも砂防堰堤の先の谷筋には昔の道形らしきものあり。上部では結構急傾斜になる谷を強引に登り切ると… 何と、昨日の飯田城址の峰あたりとは比較にならないほど広大な平地が眼前に拡がり、思わず驚嘆。前述の『信州の城と古戦場』には沢渡城を「北安随一の城」としているが、まさしく然り、かくも広大な「棚」状地形は、実に城館の構築にはうってつけであったろう。かくて、先の私の疑念はたちまち解消。私はほっとした気分と共に、しばし付近の林中を逍遥した。
(注:上記の訪問から数年後に発刊された宮坂武男氏著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 信濃の山城と館 第7巻 安曇・木曽編』(戎光祥出版刊)では、「沢渡城」を、私が上記の山行で訪問した峰より更に南の尾根上とし、1,008m標高点峰の方は「月夜棚空堀遺構」と別の名で紹介している。本山行記録は「日記」という性格上、あえて当時記した文章をそのまま残してはあるが、本山行記録の記述は訂正されなければならない可能性が高いので、その点、閲覧される方には御留意をお願いしたい。)
余剰時間の有効活用〜旧美麻村の尼子山
4/8、先の「月夜棚」(沢渡城址)への訪問後、私はオリンピック道路で帰途につくことにしたが、時間的にはまだ多少の余裕がある。となると… ここ2週間ほどの間、年度替りの多忙や季節の変わり目で体調を崩したこと等で、なかなか山に行けなかった鬱憤晴らしの意味も込めて、たとえ小さい短時間の山なりと、是非もう1峰… などと例によって私の因果な腹の虫がうずき出す。そこで… にわかに地形図上で検討したところ、旧美麻村の中、オリンピック道路から少し南に外れたあたりに「尼子山」なる変わった名前の山が目についた。見れば、頂上近くまで林道も延びているようだし、今回のような寄り道には実に格好の目的地であるように思われたゆえ、瞬間、そこへの訪問を決意、早速、その方面に車を走らせる。
林道は、美麻の小中学校の前から、さらに奥へと延びており、それに入って少々進むと、じきに学校配水池の前に出たが、そのすぐ上で路面が異常にぬかるんでいる箇所があり、うっかり進入したらFF車では動きが取れなくなりそうに思えたため、あえて配水池のすぐ下のスペースに駐車。以後は徒歩で林道をたどることになったが… 駐車場所から頂上まではさしたる距離でもないし、まがりなりにも「山」に訪れる以上、あまり楽に登頂するのも面白くないぞと割り切り、熊除け鈴を響かせながら緩い上り道をノンビリ歩いていった(注:もっとも、少し歩いたら、すぐに太い倒木が完全に道を塞いでいる箇所があり、どのみち車での進入は無理だったと判明)。そのうち上りも尽き、林道が平坦になったあたりに、さながら墳丘のごとく盛り上がっているのが頂上。そこは地形図上は単なる標高点に過ぎず、標石の類などは元々ない上に、山名標示板すらない地味で静かな場所だった。
今年初の薄暮の山〜富士ノ塔山
4/12、久々に何事もなく仕事が早めに一段落ついたので、このところようやく日が長くなりつつあるのを幸い、今年初の薄暮の山への訪問をにわかに企てる。もっとも、日が長くなったとはいっても、まだまだ中途半端ゆえ、確実に明るいうちに頂上に立つことのできる超短時間の山としていつも重宝する、富士ノ塔山を目的地に選定。この山、頂上直下まで車で上がれ、駐車場所からはわずか5分ほどで頂上に立てるという、毎度おなじみの極めて手軽な山ではあるが、最近長野市の整備事業により南北に立派な展望デッキが設けられ、長野市街地の俯瞰はもちろんのこと、天候さえ良ければ、長野市最高峰の飯縄山や、またその西に雄大な戸隠連峰を望むこともできるときていて、私としては大変好感の持てる地なのだ。
そこで… 私は職場を出ると、早速同山に続く道へと車を走らせ、頂上直下に駐車するなり、デジカメと三脚を手に、背広姿のまま一気に頂上に駆け上がった。と… 狙い通り、北向きに設置された展望デッキからは、例の飯縄山から戸隠連峰にかけての山嶺が全く雲もかからず手に取る如し! 手軽な展望スポットとはいえ、それらの山々が全てスカッと見渡せる機会は案外少ないものゆえ、久々の幸運に内心快哉を叫びつつ、数葉の画像をゲット。然る後に今度は南向きの展望デッキに移り、長野市街地を俯瞰すれば… やはり日の長さが今ひとつ不十分の時期らしく、かくも短時間の山であったにもかかわらず、市街地にはその時点で既に多くの灯火がともりつつあった。
薄暮の山第2弾〜頼朝山
4/13、昨日に引き続き、どうにか仕事が早めに一段落ついたので、またまた例の悪い虫が胸中にてうずき出し… 2日連続での薄暮の近隣の山への訪問をにわかに企てる。もっとも、まだ日の長さが中途半端であることは、昨日の富士ノ塔山でも確認済みゆえ、とにかく近くで短時間の山をと思案の上、長野市街地の北にある葛山の前衛の小峰、頼朝山に駆け上り、夕刻迫る長野市街地を俯瞰してみることにする。
そこで、私は職場を出るなり可及的速やかに車を走らせ、山腹の「静松寺」の手前の細い林道を「いつくしみ観音」付近まで乗り入れて駐車、後は周囲に人がいないのを幸い、例によって背広姿のまま腰に熊除け鈴をぶら下げ、手には三脚を装着したデジカメを携えるという、我ながら珍妙な格好でもって、足早に頂上まで駆け上がる。
八幡社の祠が祀られた頂上は、また戦国時代の砦の跡でもある。東西に明瞭な郭の遺構を伴い、一段高い本郭遺構部分がそのまま頂上になっているが、砦だけに山麓の俯瞰はすこぶる良好。殊にかつての治水工事の結果、流れを北に変えられたという裾花川の屈曲部がまるで手に取るよう。ただ残念だったのは、今日は空が曇り加減で、折角の眺めも色彩が多分にグレーがかってしまっていたことで、さらに悪いことには、そのうち周囲にぱらぱらと生憎の雨滴が散り始め… 結果、どうにか本降りにならぬうちに慌しく車に駆け戻るハメとなって終わった。
久々の爽快な家族登山〜滝山と十観山
4/15、春らしく穏やかな晴空の下、久々に家族での山行として、青木村と旧四賀村(現:松本市)との境に長大に横たわる「滝山連峰」の一角への訪問を企画。今回の目的地は、連峰名ともなっている「滝山」のピークと、その前衛的位置に鎮座する「青木三山」の最高峰「十観山」。これらの山々は、本来なら十観山〜滝山〜御鷹山〜入山(連峰最高峰)〜二ツ石峰〜保福寺峠、と通じる縦走ルートとして歩きたいところだが… 現在の我が身辺事情は、なかなか長時間山行が許されない状況ゆえ、やむなく個々の峰を目標に散発的な訪問を行ってきており、今回もその一環。
上田市から国道143号線を松本方向に向かい、「明通トンネル」を抜けてさらに少々走ったところで「河鹿沢」集落方向に折れる道に入り、林道を最上部付近まで上がって、十観山と滝山との間の稜線の縁あたりの林道脇のスペースに駐車。そこから徒歩で、まずは滝山への稜線をたどる。途中しばらくの間は笹がややうるさい道だが、その笹はなぜか途中から突然消滅し、後は非常に歩き易い長閑な樹林の中の道に。どうも雰囲気的に、昔から良く踏まれてきている道のように見受けたが、実際、いつしか傾斜の度を加えた道を登り切ったところの峰(注:現地案内板には「三ツ頭山頂」とある)や、その奥の滝山頂上には結構立派な石祠が見られるので、今でこそマイナーな山域ながら、往時は地域の人々の生活に密着したエリアだったのだろうと想像される。殊に滝山頂上には3基もの石祠が祀られているが、なぜか付近に山名標示板は見当たらず。(注:国土地理院の地形図上も「滝山」の山名標示がないが、地元広域連合作成のトレッキングマップによれば、この石祠3基のあるピークを滝山としている。)
なお、滝山登頂後は十観山に駆け上がり、上田平方面や先刻訪れた滝山方面などの眺めをしばし楽しんだ上、帰途についた。
薄暮の山第3弾〜城山(吉窪城址)
このところ、日々少しずつ日が長くなりつつある。おかげで、晴れてさえくれれば、どうにか午後6時半くらいまではヘッドランプの世話にならなくとも行動可能になってきた。こうなると、仕事が早めに終わりさえすれば、暗くなるまでに近隣の里山に駆け上り、手軽に山の気分を味わうことができる。私のような変り者にとっては、実に得難い季節の到来ということになる。
今日、4/20の空も、あたかも私を誘惑するかのごとく、朝から爽快な晴天。で… 早くも今年3度目の薄暮の山を企てる。
今回の訪問先は、長野市小田切地区にある城山(吉窪城址)。私にとっては、2005年の9/15に夜間に訪れたことがあるなど馴染の山。山としては小粒ながら、長野市街地の西、小田切ダム付近の犀川狭窄部の左岸側(北側)に、きりっとした険しい姿を見せてくれており、山城址の頂上の静かな雰囲気もさることながら、それ以上にその容姿に惹かれるものがある。それだけに私には、少しでも時間がある場合の特急訪問先として、常に念頭に浮かぶ存在の山なのだ。もっとも、あまり何度も行って飽きてしまうのも面白くないので、極力、時間や時季を以前とずらして訪れるように努めており… 今回の場合、案外これまで春先にこの山に訪れたことがなかったのを思い出したことにより、にわかに訪問先に選定した次第。
そうして訪れてみると、やはり以前とは異なる新たな発見があり… 今回は、城址への登り道の脇に、春の使者であるショウジョウバカマの可憐な花が頭を擡げているのを思いがけず見出せ、たとえ短時間でも、やはり行っただけのことはあったのが嬉しかった。
早起きは三文の得〜高山村・城山(城山城址)
4/22、高山村にある戦国時代の山城址の山「城山」に訪問。この日は元々天気予報で天候が崩れると言われており、時間が遅くなればなるほど山歩きには不都合なので、何とか悪天候になるより先に、せめて里山の一つなりとも… とて、にわかに目的地に選定の上、極力朝の早いうちに出発して訪問したものだが、天候は当初予想したよりは、案外長いこと持ちこたえたので、結果的にはこの後に別の里山にも訪れることができ、いわば「早起きは三文の得」になった次第。ところでこの山にある城址は『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』によれば、その名も「城山城址」(!)。そのものずばり「城山にある山城の址」という、あまりに端的な名称には、さすがに私もそれを知った直後はいささか面食らったものである。
もっとも、私としてはこの山、城址の件を抜きにしても、実は以前から付近を車で通行する度に、頂上部にある展望台を目にしては、機会があれば一度訪れてみたいと、かねがね気にはなっていたところ。それだけに今回のこの機会は、私には相応に貴重なものであった。
で… 前述の通り、私は早朝自宅を出て、登り口に車を走らせると、折しもそのあたりは、ちょうど桜が盛り。特に登り口に近い十王堂の桜の豪勢さは大いに見応えあり。おかげで大分爽快な気分となり、登り口から松本翁の碑(注:地元の人に事績を尋ねたが不詳)や養蚕神社の祠などを見つつ歩いて行くと、じき最後の急登を経て、件の展望台のある頂上着。早速その展望台の上に駆け上がってみると… 山城址だけに山麓の俯瞰が良好なのはもちろんのこと、天気予報通りに曇りつつある空の下、北信五岳方面の山々までがどうにか見渡せたのは幸いだった。
長閑な里山歩き〜千曲市・一重山(屋代城址)
先の高山村の城山(城山城址)への訪問後、私は自宅に戻ったが、その時点で時刻はまだ午前9時半ちょっと過ぎ。それで、以後天候が崩れるまでの間は家族サービスに徹しようと割り切り… 千曲市の「チューリップの里」に訪れて子供達を遊ばせていたが、崩れるはずの天候は、案外よく持ちこたえ、結構暖かい陽射しまで周囲に降り注ぐ。となると… つい先刻までは、高山村の城山に登っただけで満足していたものが、次第に、折角こんなに天気がもっているのだから、たとえ近くの小さい山でも、ちょっと家族同伴で歩いてみたい… などという気になってくる。
そこで、昼近くに「チューリップの里」を出た際、ふと私の目についたのが、屋代駅のすぐ東に小高く盛り上がっている一重山。ここなら時間的にも大したことはないし、今の季節なら長閑でいいだろうと思い、早速家族に提案して、ちょっと同山に上がってみることにする。
もっとも、いつ天候が崩れるかわからないし、また昼食前でもあったため、今回は北の矢代神社側からではなく、南の有明山側から訪問。こちらからなら子供同伴でも、頂上までほんの15〜20分ほどで上がれるので、実際、たいして汗もかかないうちに頂上着。そこは例によって戦国時代の山城址(屋代城址)であり、頂上本郭址の西側の縁には顕著な石積の遺構がみられ、また東側の脇には矢竹の繁茂もみられるが、それらが役に立った戦国の世も今は昔、頂上にしばし憩う我々の周囲には、春の使者のヒオドシチョウやキチョウなどが長閑に舞い飛んでいた。
偶然の発見〜千曲市・八王子宮と八王子山
先の一重山(屋代城址)から下山後、我々は昼食を摂り、その後は何とはなしに戸倉方面へと車を走らせ、たまたま温泉街の北の外れあたりにある神社(「佐良志奈神社」)に子供を遊ばせようと立ち寄ったが、その際、偶然目についた同神社の由緒書に、この神社の摂社の「八王子社」が今も「八王子山」に現存しているとあるのを見て、にわかに興味を惹かれた。というのは、私にとって「八王子山」なる山名を知ったのは実際この時が初めてであり、しかも付近にあるウォーキングの案内看板には「八王子宮」への道が明確に示されていたからだ。
となると、折角ここに来ているのだし、ついでにその「八王子宮」でも見物しつつ、どんな山なのか様子を調べてみたいという気になる。で… 子供を遊ばせ終わった帰り際、私は例によって家族に頼み込んで、ちょっとその「八王子宮」に行かせてもらうこととし、佐良志奈神社の脇の細い車道を車で上がっていくと、ほどなく平らな一角に出た。その片隅に小さい社があったので、車を降りて見てみると、それが件の「八王子宮」。
しからば「八王子山」はどこかと振り返ると、すぐ背後に手の届きそうなくらい近くに、小さいながら相応に目立つ鋭利な山容を見せているので、登行の欲求抑え難く、家族にはすぐ戻ると言い置くなり、私一人、足早に岩稜を駆け上り、登頂。頂上には何の標識もなかったが、付近には明瞭な郭の遺構が認められ、ここもまた山城址であったことを確認(注:ただし、下山後に調べた『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』には何故か記載なし)。と… 何とここで、ついに空から雨滴が落ち始め(!)、あわてて車まで駆け下った私の上衣は汗と雨とでびしょ濡れになっていた。
薄暮の山第4弾〜観音山と郷路山
4/25、例によって仕事が終わった後、暗くなるまでの時間の有効活用に、ちょっと軽い山歩きを… とて、長野市街地の北の一角にある「観音山」と「郷路山」に訪問。これらの山々、「かるかや上人」の伝説で知られる「往生寺」の裏山にあたり、登り口も同寺の裏手。同寺前の狭いスペースに慎重に駐車し、足元だけ運動靴に履き替え、後はネクタイを外したワイシャツ姿のまま、三脚を付けたデジカメだけを手に歩き出す。
観音山までは、その名の通り、路傍に石仏が何体も立つ道を行く。普通の浮彫像から繊細な線刻像まで、結構種類に富んだ面々に軽く一礼しつつ行き、ほどなくベンチのある観音山頂上。そこは地形図上ではほとんど目立たぬ小峰ながら、相応に「山」らしく好感の持てる場所。
次いで「郷路山」へと向かう。ゴーロヤマとは、石のゴロゴロした崖が露出しているところから名付けられた名らしく、「山」というよりは、むしろその山容をさしていう名称のようだ(注:実際、訪れてみると特に頂上らしい地点もなく、また国土地理院の地形図上にも山名の表示はない)。ちなみにその名の由来となった急崖は、長野市街地から見上げると2箇所あり、向かって左手の、最も目立つ崖のやや右手上方に、もう一つ、小さめの崖があって、今回私が訪れたのは、その小さい方の崖の上端部(注:さすがに夕刻にわざわざ危険な大きい方の崖の上にまで行く気はせず)。そこまで行くと、多少薮越しながら、長野市街地の俯瞰が良好。なかでも、次第に夕刻が迫る中、長野市のいわば「顔」である善光寺あたりの眺めにはなかなか風流なものがあり… ついつい長居しすぎて、往生寺に戻った頃には周囲は既に夜闇に包まれていた。