山行記録帳(2007)@
〜Yamazaki's Photo Diary 2007,@〜


 【山行リスト】
 2007年初登り〜鏡台山  約5年ぶりの訪問〜五里ケ峰  豪壮な石垣遺構〜桐原山(桐原城址)
 小笠原氏城砦群中の一つ〜秋葉山(中入城址)  所用の後に〜城山(稲倉城址)と1,118m峰
 「らっぽしょ」祭りの火文字で有名〜山吹山  壮絶な落城も今は昔〜小岩嶽(小岩嶽城址)
 鈴鹿連峰の古典的名峰〜御在所岳  好展望と頂上直下の「金剛証寺」を堪能〜朝熊ケ岳
 意外、相当規模の山城址〜城山(小松原城址)  伊那市西春近の狼煙台址〜物見や城
 実に異名の多い山城址〜大年寺山(鳥屋城址)  隣の小泉山と対照的に静寂〜茅野市・大泉山
 道なき道に奮闘〜大町市の太郎山  ついでの訪問〜長野市小田切の天神山(天神山城址)


 2007年初登り〜鏡台山
 2007年元旦、本年の「初登り」として、千曲市・坂城町・上田市(旧真田町)境の鏡台山に訪問。この山、私としては実はかなり前に一度訪れたことがある山なのだが、最近、地元の有志が中心となって、かなりコースを整備し、以前の私の訪問当時とは印象が一変したという噂を聞いていたので、是非近日中に再訪をと思っていたところ。幸い、昨年に引き続き、今年の元旦もまずまずの天候ゆえ、期待を胸に自宅発。
 アプローチは、路面の積雪を考慮し、北向きの千曲市側でなく、南向きの坂城町側から上がったが、今年は今のところ昨年に比べて格段に積雪が少なかったので、比較的容易に「沢山登山口」へ。が… 路傍に駐車し、早速登山道に踏み込むと、かねて噂に聞いていた通り、道の整備状態は以前とは比べものにならないほど良好。少し登って急登になる所で「男坂」「女坂」と二手に道が分れたが、行きは前者(右手)を選択、雪融けで湿って滑り易い斜面をトラロープ頼りに登り切り、進行方向左方から後方に目をやると、そこには北アルプスの白馬連峰から後立山連峰、さらに槍・穂高連峰に至るまでの長大な連嶺の大パノラマが展開! まさに元日に相応しい、その大観に感嘆しつつ進むと、今度は「富士見の岩」なる、晴天時には富士山が見えるという露岩があったが、登り始めが14時過ぎと遅かったので、そこへの立ち寄りは帰途に回し、まずは登頂を優先。
 かくて達した頂上は、以前の訪問時にはなかった山名の石碑や鐘などが設置されており、また前面の樹木も若干伐採されたとみえ、主として西方にひらけた展望たるや、実に絶景の一語。全く期待通りの素晴らしい雰囲気の頂に立ち、私はしばし、この上ない爽快感を味わった。







 約5年ぶりの訪問〜五里ケ峰
 1/3、本年第2弾の山歩きは、千曲市・坂城町境の「五里ケ峰」を目的地に選定。この山、私にとっては以前、名著『我が遍歴の信州百名山』の著者で大先輩の故・清水栄一氏にその名を教えて頂いて以来、一種特別な存在として脳裡に印象付けられている山のうちの一つであり、当然これまでにも何度か訪れてきているものだが、2日前の元日登山で「沢山登山口」から鏡台山に訪れた際、逆方向に防火帯沿いに五里ケ峰への道が延びているのを見たことから、積雪も少なくアプローチしやすい今回、久々に訪れてみることにしたところ。
 もっとも、この日は午前中は小雨模様のぐずついた天候だったため、登り始めは元日と同様、午後に。また、小雨模様の天候の直後だけに、展望の方もあまり多くは期待せず、とにかく折角の休日、登れさえすればよいと半ば開き直っての山行だったが… いざ行ってみれば、そのルートは私としては実は今回初めてたどるものだったこととも相俟って、結構興味深い山歩きとなった。ルート自体は徹頭徹尾、車も走れるほど広い防火帯を行く比較的単調なものだったが、周囲の展望は当初予想したよりははるかに良く、ことに2日前に訪れたばかりの鏡台山が、背後にしばしば雄大に望まれたのをはじめ、頂上直下のあたりからは、左手に坂城町の俯瞰や、また上田市・坂城町境の太郎山〜虚空蔵山あたりの険しい稜線、さらに頂上に向けて最後の登りを一歩一歩高度を上げていくにつれ、今度は背後に、鳩ケ峰〜大道山〜大峯山と続く山稜など… そして頂上からは、もちろん眼下の戸倉・上山田温泉あたりの街並みと、その中を悠然と流れる千曲川、さらに善光寺平方面の眺めが最高! 全く、何度登っても良い、さすがは故・清水栄一大先輩が推奨されただけのことはある、里山の魅力が凝縮したような雰囲気を、私はしばし、心ゆくまで堪能した。







 豪壮な石垣遺構〜桐原山(桐原城址)
 今年のNHK大河ドラマは『風林火山』。武田信玄配下の山本勘助が主人公ということで、武田氏本拠の甲斐(山梨県)はもちろんのこと、隣のここ信州(長野県)においても、最近やたらと行く先々で「風林火山」の幟旗なぞを目にするが、物語のいわば「触り」の諏訪とか川中島近辺はともかく、武田氏の信州侵略史の過程において、他にも多く存するの幾つかの重要ポイント(特に山城址〜例えば上田市の戸石城址とか、坂城町の狐落城址や葛尾城址、佐久市の志賀城址や内山城址など)には、果たしてどれほどの人の関心が向けられることか… 調べれば調べるほど、多かれ少なかれ武田氏の信州侵略と関わった山城址が信州には余りに多く、それだけに信州人の私としては、今のにわかな『風林火山』ブームに、いささか複雑な想いを禁じ得ないのであるが… 反面、そんな多くの信州の山城址が改めて脚光を浴びるチャンスといえなくもない。
 1/14、私が訪れた「桐原城址」もまた、そんな山城址の中の一つ。山麓の松本市桐原付近より標識に導かれて「海岸寺沢」側から急斜面の道をほんの30〜40分も登りつめると、やがて眼前に相当な規模の段郭や空堀、石積みなどの遺構が次々と姿を現す。ことに主郭の周囲は豪壮な石垣にぐるりと取り囲まれており驚嘆。この城、小笠原氏の本拠林城の属城として武田氏と対峙したが、塩尻峠の合戦での大損害による兵力不足が災いし、天文19年(1550年)、武田氏の侵攻の前に、まともに反撃もできぬまま本拠林城と同じく自落したという。これほどの規模を誇る城砦を持ちながら… もし仮に、小笠原方が十分な兵力を配置して、ここの守りを固めていたなら… いやいや、歴史に「if」は禁物か。







 小笠原氏城砦群中の一つ〜秋葉山(中入城址)
 1/20、松本市入山辺にある中入(なかのいり)城址に訪問。この城址、つい先日(1/14)訪れた桐原城址の近くにあるもので、現地の看板や信濃史学会編『信州の山城』(信毎書籍出版センター刊)には「山家城址」と紹介されているものだが、実際に城址に上がって遺構を確かめてみると、小笠原氏の一連の城砦群の特徴という主郭後背の土塁と深い堀切や主郭周囲の石垣、また甲斐の武田氏の築城法の特徴であるという何条もの竪堀がみられるなど、種々の要素が組み合わさった興味深い城址であることから、私としては単に山家氏の城というイメージしかわかない「山家城」という呼称よりは、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)の記述のとおり、所在地の地名を冠した「中入城址」をあえて本項の表題とした次第。なお、ついでに言えば、この城址のある「山」の名については、地元の人に尋ねても首をひねるばかりで判然とせず、また先の城址の呼称の場合と同様、地名を冠して「中入山」という場合もあるらしいが、それも今ひとつ確信が持てないので、これまた先の『信州の城と古戦場』の記述に従い「秋葉山」とした。実際、この山の頂上付近には「秋葉神社」が祀られているので、当面これが他への紹介上にも最も適当な呼称ではないかと考える。
 で… 私は山麓の中入集落上手町にある集会所付近から歩き始め、獣の足跡が交錯する雪の斜面を尾根上に這い上がり、さらにその尾根を登りつめて主郭址の直下に出た。この主郭の南〜東面には、きわめて規模の大きい石垣の遺構がみられて興味深い。主郭址の平地には小笠原氏を祀る祠があり、主郭のさらに奥の秋葉山頂上付近には前述の通り、素朴な「秋葉神社」の社殿がひっそりと祀られていた。







 所用の後に〜城山(稲倉城址)と1,118m峰
 1/21、松本市稲倉(しなぐら)にある城山(稲倉城址)に訪問。この日は実は午前から家族同伴の所用で生坂村に行っており、本来は山に訪れるつもりはなかったのであるが、所用の方は午後1時半頃に片がつき、その時点で存外の好天であったことから、私はにわかに常携している南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)をひもといた上、前記の訪問先を選定、直ちに安曇野市明科経由で車を山麓に走らせた。
 国道254号を三才山へと向かう途中の稲倉集落から「稲倉峠」方面への車道に入り、しばらく上がると、そのうち綺麗な城址の概念図が描かれた案内板のある登り口に到着したが、この時点で時刻は既に14時半頃。あまり時間に余裕はないし、雪も深くてとても家族は連れて行けぬゆえ、家族には私が登っている間、麓で買い物でもしてきてもらうこととし、16時過ぎ頃に再度登り口で待ち合わせることに決めて、早速登り出す。
 積雪はあるが、登山道はよく整備されていて急傾斜の割に歩き易く、30分ほどの後に本郭址の平に到達。右手(南西)に二の郭との境の空堀、また左手(北東)の本郭側には小規模ながら段郭の遺構が明瞭。ただ、そこはあくまで尾根上の開削地に過ぎず、麓から見て三角錐の頂点にあたるのは、実は本郭ではなく三の郭であることが判明。実際「山」としては、この三の郭のピークをこそ「城山」頂上とみなすべきだろう。
 なお、時間に不安はあったが、本郭の段郭と深い空堀のさらに先(北東)に、より高く聳えている地形図上1,118m標高点のピークにもついでに訪問。露岩もある急な尾根を登りつめて登頂したが、この峰のすぐ東の直下には、どうみても人工的に見える郭とおぼしき平地あり。案内板には何も書かれていないが、案外遠見の番所か後詰めの隠小屋でもおかれていたものか。それとも素人の先入観に過ぎないのか…?







 「らっぽしょ」祭りの火文字で有名〜山吹山
 1/28、木曽路の宮ノ越の北にある「山吹山」に訪問。この山、一般には毎年8月半ばの「らっぽしょ」祭りで、頂上直下の崖に、京都の大文字みたいな「木」の火文字がともされることで知られており、私も元来の民俗学趣味の一環で、何度かそれを眺めに訪れたことがあるが、実は迂闊にも、これまでこの山を「登る」対象として意識したことは、あまりなかった。それが… つい最近発刊された伊部高夫氏の好著『長野県中信・南信日帰りの山』(章文館刊)の中で同山の名を目にしたことにより、同山はにわかに私にとって訪れてみたい山の一つとなったものである。
 それで、かねがね訪問の機会を狙っていたところ、たまたまこの週末、土曜日の天候不良が日曜日に回復の気配が見えたことから、風邪気味の子供の面倒等を女房に頼み込んだ上、幾分後ろめたい気分と共に私一人で家を飛び出した次第。最近の我が初訪の山としては、久々にまともなガイドブックが手元にある山ゆえ、登山口の捜索には全く手間取ることはなし。路傍の狭いスペースに地元の人の迷惑にならないよう注意して駐車した上、道標に導かれて登山道へ。若干腐り気味の重い雪を踏みしめながらの進行ながら、道自体は毎年「らっぽしょ」祭りで子供たちが登るくらいだから、よく整備されていて、これまた全く心配はなし。ほんの30分ほど、樹林の中の道をジグザグに登ると、例の「らっぽしょ」の火文字がともされる崖の上の縁に飛び出て、ここで一気に南の方の眺めが開けた。火文字をともす場所だけに、当然展望も良い。ことに中山道木曽路の宿場町のひとつである宮ノ越方面の俯瞰などが良好。私は心地好い汗を拭いつつ、最後の雪道を物見櫓を模した展望台のある頂上までノンビリとたどった。







 壮絶な落城も今は昔〜小岩嶽(小岩嶽城址)
 2/4、旧穂高町の小岩嶽(小岩嶽城址)に訪問。この週末は土・日曜日とも山行には絶好の良い天気だったが、皮肉にもこういう時に限って、土曜は野暮用で貴重な休日を丸一日棒に振り、せめて日曜だけでもと思ったものの、幼少の子供達を抱えた身としては家族サービスも不可欠とあって… 結局は家族で遊びに出掛けたついでに、ちょっと時間をもらって登ってこれそうな山を物色した結果、この小岩嶽を思いついた次第。
 そこで… 家族で昼食を摂った後、登り口の穂高町にある「小岩嶽城址公園」に車を走らせ、私が登っている間に女房には子供達と買い物でもしていてもらうことにして、早速登り出す。城址公園から、まずは矢竹の繁茂する中を上方に見える櫓を模した展望台目指して登り、さらに展望台の裏手の山稜を上がっていくと、そのうち花崗岩の露岩が現れ始め、じきベンチのある明るい露岩の地点へ。そこは美ヶ原や鉢伏山方面などの展望が良く、往時は物見所として利用されていたことであろう。もっとも露岩はそれより上部にも連続し、自然の造形にしては実に絶妙な「虎口」の体をなしているものだと感心。あるいは「小岩嶽」の名の由来もこのへんからきているのだろうか?
 やがて登り切った頂上は、あまり広くない二つの郭のある、いかにも後詰の砦といった雰囲気の場所。天文21年(1552年)8月初め、甲斐の武田信玄の侵攻に際し、小岩嶽城は城主・仁科盛親以下500余の城兵が決死の覚悟でこれを迎撃したが、衆寡敵せず、同月半ばに無念の落城を遂げたという。かくも壮絶な実戦歴を有する城址だが、今は何事もなかったかのように静寂の中、樹間から長閑な陽光が射しこんでいた。







 鈴鹿連峰の古典的名峰〜御在所岳
 2/10、3連休の初日。家族旅行の途中、鈴鹿連峰の古典的名峰である御在所岳に立ち寄っていく。
 このところ、冬季のせいもあり、あまり十分な家族サービスもできずにきているとあって、この2/10〜12の3連休には、さすがに山ばかりに行きたいというわけにもいかず、子供達の希望を容れて三重県志摩あたりにある某テーマパークに出掛けるハメになったのだが… そうは言っても折角の休日、せめて少しなりとも「山」の雰囲気くらいは味わいたいとあって、思案の末、往路の途中で、子供達でも比較的安全に遊べそうな山として、ロープウェイで頂上付近まで上がれ、かつ頂上付近が山上公園として開発されている御在所岳への訪問を思いついた次第。
 ところが… 湯ノ山温泉から予定通り「御在所ロープウェイ」に乗り込み、「大黒岩」などの奇岩に歓声を上げつつ山上公園駅に上がったまではよかったが、ここで長女がよりによって、ある事情により、服をびしょ濡れにしてしまうという、とんだ変事出来(!)、全く想定外の事態ゆえ、当然着替えの携行もなく、かといって幼少の子供を濡れた衣服のまま、積雪もある山の上を歩かせるわけにもいかず… やむなく女房は子供達を引き連れ山上公園駅から下界にとんぼ返り、結局私のみ御在所岳の三角点と、そのすぐ先の最高標高点の花崗岩の露岩のピークを往復することに。
 山上公園のスキー場付近は、さすがにシーズンだけに相当の賑わいながら、今やここに「山登り」のつもりで訪れる者は数少ないとみえ、最高標高点付近は全く対照的に静かな雰囲気。私は平成9年の秋以来2度目の頂上に立ち、いささか慌しい中にも心地好い額の汗を拭った。







 好展望と頂上直下の「金剛証寺」を堪能〜朝熊ケ岳
 2/12、3連休もはや最終日。我々は志摩からの家族旅行の帰り道を「伊勢志摩スカイライン」に採ったが、あまりの天気の良さに、折角だからと途中「朝熊ケ岳」(あさまがたけ/朝熊山とも)の頂上と、その直下にある伊勢神宮の鬼門を護る寺として有名な「金剛証寺」に立ち寄っていく。
 とりあえずは「朝熊山上公苑」のレストハウス付近から、伊勢・志摩随一といわれる展望をしばし楽しみ、然る後に「金剛証寺」の駐車場に車を駐め、散策順路を思案の上、同寺の重要文化財指定の本堂摩尼殿への参拝はあえて後回しにして、まずは「奥ノ院」に訪問し、さらにそこから朝熊ケ岳最高点の頂上へと登ってみることにする。
 巨大な卒塔婆の立ち並ぶ異様な雰囲気の道を行き、「奥ノ院」の手前左手に斜上する道に入ると、そこからは意外と「山」らしい道を経て、ほどなく頂上へ。そこは無線施設が建つ一角と、幾つもの鳥居が立ち並ぶ「八大龍王社」のある一角とに分かれ、その中間あたりに「朝熊ケ岳山頂」と刻印された石柱あり。展望が良いのは先刻の「山上公苑」と同様で、快晴の空の下、久々に家族全員で長閑な山の一時を楽しむ。
 帰りは杉林の中の歩き易い道を、頂上直下の「金剛証寺」まで下り、桃山時代の建築という本堂摩尼殿に参拝。素人目にも見事な朱塗りの本堂は、前述の通り重要文化財指定。靴を脱いで本堂内に上がると、そこには私の地元の善光寺にあるのとよく似た「びんずる様」の木像などがあるなど、なかなか興味深く、今回の家族旅行の最後の訪問先に相応しい見応えある場所であった。







 意外、相当規模の山城址〜城山(小松原城址)
 2/18、長野市小松原にある「城山」に訪問。この山、その名の通り、戦国時代の山城址(小松原城址)の山とのことだが、詳細についてはどうも私の手元の文献からは明らかでなく、わずかに『長野縣町村誌 北信篇』の「小松原村」の古跡の項に「村の西南の方にあり。東西二十間、南北廿間、嶺上一平地にして、四方嶮峻、堀切あり、某の城址たるか不詳」とあるのを見出したのと、長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』から「単郭」の城址が存在するらしいことが判明した程度。付近に案内看板も見当たらず、やむなく山麓の「小松原神社」から歩き始め、途中の果樹園で農作業中の人に道を尋ねた上、北側の山稜からまず直上の峰上へ。と、確かにそこは単郭状の平地になっており、一角には矢竹の生育や石祠もみられたが、特に史跡の標柱などはなかった上、さらに南方に、より高そうな別の峰が見えたので、自然、そちらへと足が向く。と、しばし進んだ稜線の右下方に、意外にも結構大きい池塘あり。脇に小広い平地もあり、往時は城の「水の手」として利用されたものであろうか。
 さらに進み、眼前の斜面を登り切ると、今度は明瞭な段郭の遺構らしきものを見出す。あれ、城址はさっきの峰じゃなかったのかと意外に思いつつ、最高点らしき場所に立って周囲を見回すと… 何と、一帯には幾つもの郭とおぼしき小平地や、土塁とおぼしき土の盛り上がりが随所にあるではないか。私は、何だ、小松原城址の主郭は、先刻の峰ではなくて、こっちなのかと思ったが、しかし反面、いささか疑問が胸中に湧き上がった。おかしい、これは「一平地」とか「単郭」などというレベルのものではない。どう見ても複郭、それも事前の想像以上に大規模な山城址だ。
 これは一体どういうことか…? 何とか近日中にこの謎解きを果たそうと心に期しつつ、私は往路と異なる道を「天照寺」へと下った。
 (追記:その後、この城址について県教委文化財・生涯学習課を通じ長野市教委に問い合わせた結果、宮坂武男氏著『図解山城探訪』第十集所収の縄張調査図の写しを入手でき、それに描かれている縄張の形状が、まさしく私が南の峰で見た遺構そのものであったため、ほぼ上述の疑念は解消した。私の手元にある長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』は昭和54年〜57年調査と、かなり前の調査に基づいており、おそらくその時点では、この城址については全貌把握がなされておらず、物見の砦とおぼしき単郭の北の峰の遺構のみ掲載されたのだろう。実際、同書の分布図上の遺構範囲も北の峰寄りに表示されている。ちなみに、今回入手した宮坂氏の縄張図は平成12年調とある。)







 伊那市西春近の狼煙台址〜物見や城
 2/24、伊那市西春近にある戦国時代の山城址の山「物見や城」に訪問。その名の通り、往時は物見や狼煙台に使用されたという峰だ。
 この山、山名も城址名も同じ「物見や城」という珍しい山で、三省堂『日本山名事典』にもその名で掲載されている。が、『長野県上伊那誌 歴史篇』を参照すれば、この地方には「物見や城」という城址が、今回訪問した西春近のそれ以外にも、伊那市富県や駒ヶ根にもあるようなので、どうも紛らわしいゆえ、何か別の山名はないものかと『長野縣町村誌 南信篇』の「西春近村」の項などを参照して調べてみたが、特に記すべき結果は得られずに終わった。ともあれ、私としては、その面白い山名に惹かれ、以前から気にはなっていたものであるが、昨年の7月下旬にこの地域に訪れたついでに「偵察」した際には、登り口の「休平キャンプ場」への道が、7月豪雨の影響か災害で車両通行止めになっていた。
 それから半年以上経ったので、もう復旧されているだろうと期待しての今回の訪問だったが… 行ってみたら、何と道はいまだ通行止めのまま。やむなく観念し、面倒だが登り口まで通行止めの車道を歩いていくハメに。しばらく行くと、なるほど道の一部が大きく陥没している箇所があったが、幸い歩行には全く支障はなし。「休平キャンプ場」からは、林内に延びる広い道をたどり、さらに尾根に取り付いて上を目指す。しばしの急登を乗り越えると、そのうち道は平坦となり、それとともに右手の樹間に仙丈ケ岳など南アルプスの豪快な連嶺が目につくようになった。頂上へはそれからほんの一投足にて到着。南北の俯瞰が良好で、いかにも狼煙台らしく物見にはうってつけの場所であった。







 実に異名の多い山城址〜大年寺山(鳥屋城址)
 2/25、上田市(旧丸子町と旧武石村との境)にある、戦国時代の山城址(鳥屋城址)の山に訪問。(注:実は訪問時点では城名不詳、下った後にはじめて判明。ただこの城址、「烏帽子城」「烏帽子形城」「依田城」「大年寺山城」「首切城」など実に異名が多い上に、山名については例によって地形図上は不詳ときている。それで帰宅後に『長野縣町村誌 東信篇』をひもといてみると、「東内村」の古跡「大年寺山城址」の項に「和子組巳の方二十五町、大年寺山にあり。」とあり、また同じく「鳥屋村」の古跡「依田城址」の項に「村の北方沖村、腰越村、東内村の地境、鳥屋入山の頂にあり。」とあった。ここでは私が登った取付点側の地名に従い、前者の名で標記しておくが、後日改めて地元の人に尋ねてみたいと思う。)
 この日は午前中から所用で佐久あたりまで飛び回っており、当初は山に登る時間はないかと思っていたが、15時過ぎに所用が全て片付いたことから、帰途どこでもいいから目についた里山に登ってみようと考え、何となく旧丸子町から旧武石村方面への道へと車を走らせた。と… 丸子の町中を抜け、「小屋坂トンネル」の分岐近くまで行ったへんで、前方に結構形の良い峰が見える。実はこの峰、私には、いつもこのあたりを通過する際に気を惹かれてきたもの。で、よし、ここだと瞬間決意、分岐を右折して「小屋坂トンネル」を抜け、すぐ左手にある駐車スペースに入る。
 付近には特に標識も明瞭な道も見当たらなかったが、ともかく林内を頭上に見える峠まで上がると、そこからは尾根通しに明瞭な踏跡あり。途中、樹間に浅間山や蓼科山などの眺めを楽しみつつ行くと、やがて城址の遺構範囲に。明瞭に残る数段の郭と堀切を乗り越え、最後にひときわ高い本郭直下の切岸を強引に登り切って頂上着。三角点標石と文字の風化しかけた石碑が出迎えてくれる、素朴な雰囲気の頂上だった。







 隣の小泉山と対照的に静寂〜茅野市・大泉山
 3/3、茅野市にある里山「大泉山」に訪問。この山、昨年の2/11に訪れた「小泉山」のすぐ東にある山で、標高的にも雰囲気的にも小泉山によく似た感じであることから、小泉山に訪れた以上、それとセットみたいな大泉山にもいずれ訪れてみたいと常々思っていたもの。たまたまこの週末は比較的穏やかな気候になりそうであったことから、久方振りに家族全員を同伴しての「陽だまり里山散策」として訪問することとした次第。
 そこで、早速山麓に車を走らせ、登山口を物色すると、じき茅野市豊平の御作田集落付近で、尾根の縁に石鳥居が立っている箇所を見出したが、特に登山口を示す何の標識もないので、さらに念のため付近を捜索すると、今度は北西側の山麓の耕地の中の道路脇から、尾根に向けて上がっている道を見出した。ここにも標識はなかったが、この上別の登り口を探し回るのも面倒だったので、結局そこから登ってみることに。
 登山道に足を踏み入れてみると、踏跡は明瞭ながら、やや薮がちで若干鬱陶しい箇所もある。隣の小泉山とは対照的に、あまり人が入っていない様子なのが意外だが、これは里山ではしばしばある茸山のせいか? ただ登りの所要時間はさして長くなく、ほんの30〜40分もゆっくり登ると、難なく頂上に達した。そこは三角点標石がある以外、山名標示板すらない地味な場所。この山では隣の小泉山と同様「火とぼし」の神事が行われるというが、それにしては祠も見当たらなかったのが不思議。もっとも子供達はそんなことにはお構いなく、久々の山に御機嫌だったが。
 帰り、気になったので先刻の登山口物色中に目についた御作田集落付近の石鳥居に立ち寄り、試しにそこから少し上がってみると、ほどなく赤く塗られた「穂見神社」の社殿に達し、さらにその裏手に道が続いているのを確認。おそらく、こちらの道の方が「表口」なのだろう。







 道なき道に奮闘〜大町市の太郎山
 3/4、大町市(旧美麻村との境)にある知られざる山・太郎山に訪問。この山、有名な青木湖のすぐ東にある山なのだが、案外注目されることもないらしく、少なくとも私の手元にある文献の中では、わずかに三省堂『日本山名事典』の中に簡略な記事を見ることができる程度。大体、この手の寂峰調査に威力を発揮する『長野縣町村誌』の中にすら、その名を見出せないので… 昔から里人の生活からは遠い存在の山だったのだろう。
 然るに、そんな山ほど、この上ない魅力を感じてしまうのが最近の私の性分で… 地形図で検討した結果、長野市から白馬村へ向かう「オリンピック道路」を行き、旧美麻村の「青具」の交差点から白馬村寄りに数百m進んだへんで左に折れて太郎山の直下に入る道があるので、そのあたりから適当に見当をつけながら登ってみようと企て、早速そのとおりに車を走らせ、関係車以外立入禁止の立看板のあるへんまで車で入る。
 駐車後、徒歩でしばし雪の林道をたどり、峠に出たところで右の斜面に取り付き、とにかく踏跡らしきものをたどりつつ(注:どうもほとんど獣道だったらしい)、岩の露出する不安定な急斜面を強引に登り切り、後は稜線伝いに頂上までたどったが、この稜線、案外幾つも小さいコブを乗り越えねばならぬ上、ほとんど登る人もないとみえて薮が結構きつく難渋。おまけに途中で正体不明の獣の足音を幾度も耳にし(注:雪上の足跡からして、少なくとも熊ではなさそうだったが)、戦々恐々としつつ、2時間弱ほどの登りの後にようやく登頂。余程の寂峰とみえ、道らしい道はついに最後まで現れず、ようやく達した頂上も周囲を樹林に覆われ、期待した北アルプスの展望はまるでダメ。ただ… 一面雪に覆われた頂上の中、どうせ雪の下だと半ば発見を諦めていた三角点標石が、不思議にも、まるでそこだけ手品のように頭を覗かせてくれていたのが、私には何よりの慰労であった。







 ついでの訪問〜長野市小田切の天神山(天神山城址)
 先の大町市の太郎山から下山後、私は帰途についたが、最近陽が長くなってきているので、長野市小田切あたりまで戻っても、まだ周囲は十分明るい。となると、折角の日曜日の貴重な時間、どこかもう一箇所、手軽な所でも… などと、また私の因果な腹の虫がうずき出す。
 そこで、にわかに検討の上、以前、小田切観光協会の案内地図看板で目にした「天神山」なる峰に参考までに訪れてみることにする。この山、『長野市誌』第12巻資料編の「第3編 城館跡・条里」の一覧表中に「天神山城跡」として収録されており、それによれば「塩生地区の仏工伝集落背後の尾根頂部にあり、現在天神社が祭られている長方形の削平地が主郭と思われる。」とのこと。
 小田切地区の集落は、山懐深く散在しており、車道も細めで多少運転に緊張したが、どうにか迷うこともなく天神山麓の「仏工伝」集落付近に車を走らせる。その集落のやや上、大きくカーブしている車道脇に「庚申」の石碑がある地点の向かい側に、車1〜2台分程度のスペースがあって、その先に小道が延びているのを見出す。特に標識はないが、おそらくはこれが登り道だろうと見当をつけ、スペースに駐車して歩き出す。
 もっとも、地域の小さい里山ゆえ、駐車場所から頂上までは、ほんの10〜15分ほど歩けば事足りた。頂上手前には郭の遺構と思しき小広い平地があり、山名のごとく天神社が祀られている頂上はそのすぐ上。そこでも特に標識の類は見当たらなかったが、頂上部の一角には城址らしく明瞭な段郭の遺構が見出せた。樹林で展望は利かなかったが、いかにも地域の里山らしい素朴な場所だった。