山行記録帳(2006)F
〜Yamazaki's Photo Diary 2006,F〜


 【山行リスト】
 旧八坂村の城山(雷電城址)と「天狗様」(大野神社)  長野市小田切の甲山(甲山城址)
 辰野町宮所の城山(竜ケ崎城址)  山深くたたずむ木曽義仲ゆかりの地〜萩野山(萩野城址)
 夕暮れ迫る旭山(旭山城址)  天候回復を機に「頂上」探索〜長野市・中尾山
 2年ぶりの訪問〜夕刻の千曲市・有明山  小川村・旧美麻村境の珠玉の秘峰〜蕎麦粒山
 ちょっと気になる佐久の里山巡り@〜明巖山  ちょっと気になる佐久の里山巡りA〜凧の峰
 2006年最後の山歩き〜大宮山(三日市場城址)


 旧八坂村の城山(雷電城址)と「天狗様」(大野神社)
 11/12、この日は前日に引き続き、朝からどうも鬱陶しい雨模様の天候で、さすがの私も山は半ば諦め、家族と共に旧坂北村あたりの温泉に遊びに行ったが、昼食を終えた頃、にわかに青空が出てきたことから、例によって家族に頼み込み、ちょっと軽い山に行かせてもらうことに。
 その際、私がにわかに訪問先に選定したのは、旧八坂村の城山。むろん戦国時代の山城址(雷電城址)の山で、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)によれば、この地方の豪族であった仁科氏の臣・小菅氏の城址とのこと。私は早速、山清路から八坂方面への道に入り、小松尾集落付近から同山直下に上って登り口を物色。ゆっくり南東側に車を走らせ、そのあたりで山仕事をしていた地元の人に道を尋ねると、何とすぐ脇が登り口で、南東の尾根通しに登るという。今秋初見参の小雪の舞う中を、私は早速教えられた通りにたどって登頂。頂上には石祠が1基祀られており、その脇の切岸の縁から下方を見ると、きわめて明瞭な郭や空堀の遺構が見られ、こんな山深い地によくぞ築いたものよと思わず感嘆。
 しばし城址の遺構を観察の上、私は往路を戻ったが、その際、前途に結構秀麗な山容をした、何やら意味あり気な峰があるのに気付く。それで登り口まで戻り、また先刻の地元の人に、あれは何という山かと尋ねると、「天狗様。おらほうの氏神様が祀ってあるだ。今でもあるだに」との答え。私はこれを聞くや、ついそちらにも訪問してみたくなり… やや急な道を一気に頂上まで登り切ると、そこには「大野神社」の素朴な社殿あり。同神社と天狗との関連はよく判らなかったが、それにしても「天狗様」などという山名に、地元の人々のこの山への愛着が強く感じられた次第。







 長野市小田切の甲山(甲山城址)
 11/17、この日は平日だが、所用等のため休暇を取得。もっともその所用は11時頃からで、午前中にわずか2〜3時間程度ながら空き時間がある。となると… 例によって、何とか有効に時間を活用したい。で… せめて近在の里山でもと、女房の了解を得て1人で家を飛び出す。
 目的地は長野市小田切の千木集落付近にある「甲山」。この山、小田切付近を訪れると要所に設置されている観光協会の案内看板に「旗古城」の標示がある山で、以前からずっと気にかかっていたものであるが、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)はじめ、私の手元にある各種参考文献の中には特に関連記事がなく詳細不明ゆえ、つい今日まで行きそびれてきたもの。が、人里近くて楽に訪問できそうなので、時間的に中途半端な今回のような機会には、ちょうど適当な目的地ではある。
 それで私は早速、裾花峡側から千木集落付近へと車を走らせ、その名のごとく甲のような山容を目当てに細い「甲山林道」に入ると、そのうち道は堆積する樹枝などに妨げられ車で進み難くなったので、適当な所に駐車、以後は徒歩でわずか林道をたどる。と、じき右手に赤い目印テープと、それに導かれるように右手の樹林の中に延びていく薄い踏跡を見出し、それをたどると難なく頂上に到着。頂上の一角には石祠が1基祀られている他、案外何の標識も説明看板もなく、また地形図上存在するはずの三角点の標石も何故か見当たらなかったが、周囲には明瞭な段郭がみられ、間違いなくそこが往時の山城址であることを確認。いささか慌しい中ながら、とにかく時間を有効に活用でき、安堵のうちに下山。
 (追記:この城址については、当初、小田切観光協会の案内看板に従い「旗古城址」として掲載したが、その後、さらに調べているうち、『長野市誌』第12巻資料編の「第3編 城館跡・条里」の一覧表中に「甲山城跡」の欄、及び「小野平城跡」の別称を「旗古城」という旨の記述を見出したため、混乱を避ける意味で、本項の標記を「甲山城跡」に改めることにした。なお、何故、小田切観光協会の案内看板では甲山の位置に「旗古城」の表示をしているのかは現時点では不明。引き続き調査したいと思う。)






 辰野町宮所の城山(竜ケ崎城址)
 この週末は生憎の所用やら芳しくない天候やらで、どうも山に関しては巡り合わせが悪く、残念ながら相応に充実度の高い山に訪れる機会はなかったが、かろうじて11/18、所用が全て済んだ後のわずかな時間を利用して、折角だからと参考までに辰野町宮所にある城山(竜ケ崎城址)に駆け上がってみた。それも一年中で最も陽が短い時季に、16時以降の訪問という悪条件下、ろくに衣服を改める間もないままの訪問。
 この山にあった竜ケ崎城は、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)等の記述によれば、かつて甲斐の武田信玄が箕輪の福与城を攻めようとした際、小笠原勢が援軍に駆けつけ、ここを拠点としたが、武田方の板垣信方勢の攻撃にあえなく陥落、小笠原勢は後退のやむなきに至ったとある。とすれば、ここは信州の戦国乱世史において立派に重要な意義を有する史跡といえるのだが… その割には案外山麓にも、また山中にも何の標識も案内看板もなく、おそらく現状では事前知識がない限り、ここに訪れようなどと考えるのは、せいぜい地元の一部の人達だけだろう。
 もっとも、登りは比較的容易で、池上寺の裏手の墓地あたりから取り付き、頂上までの所要時間はほんの15〜20分程度で事足りた。墓地のすぐ上に公園風に整備された館址らしい平地から、小祠や石仏などを路傍に見つつ上がっていくと、そのうち三角点(注:最高点ではない)を過ぎ、さらに空堀や郭の遺構を見て、最後に周囲を土塁で囲まれた城山頂上の本郭址に達した。そこには前述の通り何の標識も案内看板もなく、ただ枯れかけた夏草が一面にはびこっており… ある意味、いかにも古城の址らしい雰囲気の場所であった。






 山深くたたずむ木曽義仲ゆかりの地〜萩野山(萩野城址)
 このところ、所用やら天候の加減やら、はたまた自身の風邪やらで、どうも「山」に関しては巡り合わせが悪く、12月に入って最初の週末になる12/2(土)も、午前中は所用の上、午後は天候が崩れるとの予報… で、家族と共に、どこか温泉でも入ろうと国道19号線を南下していったが、途中でふと思いつき、信州新町も山深くに入ったところにある「萩野山」(萩野城址)にちょっと立ち寄ってみることにする。
 登り口の萩野高原の「森の家」前の案内看板で周辺の状況を確認し、ノンビリ歩いていくと、そのうち「旭観音菩薩堂跡」の「 眺望(にらみ)台」の東屋に出る。この地は意外にも、信州の英傑木曽義仲ゆかりの地で、寿永3年(1,184年)正月、近江粟津ケ原で義仲敗死の際、仁科氏の家臣竹村兵部とその郎党が、焼失寸前の義仲公祈願所玉泉寺の火炎の中から主君の守本尊の観音像を無事抱え出し、苦難の末にこの地に逃れ来て、里人たちの協力のもと、数年後には小さい堂宇と観音堂を建立したと伝えられる。旭観音とは木曽義仲公の守護仏のことであり、付近には「よしなかの錦に染る萩野山 この世を護る観世音」とか「敢えなくも敗れ落ち来し萩野山 旭観音この地を照す」の歌を記した石碑が目につく他、旭観音にちなんだものか、東屋には小さい観音像がガラスケースの中に安置されていた。また東屋の説明板によれば、仁科盛遠は京都敗北の痛みに耐えつつ、この台上に立って北信濃平定を策しつづけたとのこと。萩野城はそのための前進陣地として築かれたものといい、眺望台からしばし歩くと、枯れ草の中に城址の標柱が見出された。頂上はそのすぐ奥の東屋のある峰(注:森の家の案内看板によれば「萩野城見張台」とのこと)にあった。







 夕暮れ迫る旭山(旭山城址)
 12/3、この日もまた、前日に引き続いて午前中は所用、午後も何やかやと野暮用に時間を費やしているうち、ついに16時を回ってしまった。が… 折角の休み、このまま家でただ過ごしてしまうのも惜しく、せめて山の雰囲気だけでも… とて、にわかに近くの旭山に駆けつける。
 この山、南の朝日山観音堂側から車で上がれば、駐車場所からだとほんの15〜20分で頂上まで上がれる上、展望台からは長野市街地の眺めもすこぶる良いとあって、こんな場合の特急登山には大変重宝する存在。何しろ今は一年中でも最も陽の短い時季、何とか暗くなる前にと、まずは息せき切って頂上の旭山城本郭址に駆け上る。かつて甲斐の武田氏と越後の上杉氏が激突した一連の川中島合戦の中で、この城は相当に重要な役割を演じたといわれ、ことに弘治元年(1,555年)には武田方の籠城軍を上杉方が攻撃したが、和議までの間、最後まで陥落しなかったという堅固な城だ。確かに山城としては高く急峻な地形の山であり、より一層護るに易く攻めるに難い地であったろう。
 もっとも本郭址は樹林に囲まれ展望不良ゆえ、周囲の土塁の痕跡を見物してから、すぐに展望台へ。早足に流れる汗を拭いつつ、展望台の縁に立つと… そこには、いつ眺めても雄大な善光寺平の俯瞰と、またその背景の菅平方面などの山並みの眺望が変わらず拡がっていた。






 天候回復を機に「頂上」探索〜長野市・中尾山
 12/9〜10の週末はどうも天候が良くなく、12/9は雨天、翌12/10も朝から小雨模様ときたので、山は半ば諦めていたが、昼近くになって天候回復の気配。さればと、にわかに家を飛び出し、長野市の中尾山近辺の散策に向かう。この山、長野市街地の西の丘陵中にあって、一般には付近にある「中尾山温泉」の名で知られているが、その割に「頂上」が今ひとつ判然としないので、いつかその「謎」を解いてみたいと思っていたところ。
 まずは、山麓の「光林寺」あたりまで行って付近の様子を探索。この光林寺の参道には、以前は樹齢300年以上になるという市指定天然記念物の見事な松並木があったが、松喰い虫被害のため、平成12年に天然記念物指定を解除されてしまった。松がなくなり、すっかり明るくなった参道の右手後方に、所々裾花凝灰岩の白い崖が露出している山がよく見渡せる。そのあたりを目指して車を走らせ、中尾山温泉「松仙閣」の入口手前で右に折れる細い車道を上がると、そのうち「花井神社」を左に見て、以前「展望閣」なるホテルがあった所に出た。そのすぐ上の広場の端から上方を望むと、奥に三角形の白い崖の露出した峰が見えたので、そのあたりが「頂上」だろうと見当をつけ、さらに車道を上がると、じき峠に出たが、そこから目指す峰の方(右)に入る道の先は果樹園になっていて「立入禁止」の表示あり。やむなく元来た道を少々戻ると、そのうち左に小道が入っている箇所があったので、これ幸いと車道脇の狭いスペースに駐車、そこから急斜面の縁伝いに登りつめると、首尾よく例の峰の頂点に飛び出せた。
 そこは、すぐ手前まで迫った林檎畑と急崖の縁との間のわずかなスペースに、さながらそこだけ島のごとく熊笹が茂った一角。特に標識はなかったが、周辺の状況から、そこを一応頂上とみなしてよさそうだった。急崖の縁の頂点らしく、長野市街地の俯瞰が良好な所であった。







 2年ぶりの訪問〜夕刻の千曲市・有明山
 12/10、先の中尾山への訪問が当初予想より存外早めに終わり、中途半端に時間が余ってしまったが、皮肉にも天候は一層回復傾向にある。となると、例によって私の中の悪い虫がうずき出し… どこか近所で、手っ取り早く訪問して来れそうな山はないかと物色を開始。
 とりあえず、空を見回し、鬱陶しそうな黒雲のかかっていない方向へと車を走らせていると、そのうち自然と千曲市の屋代近辺に出た。と… ここで、にわかに森将軍塚の上にあたる「有明山」はどうかと頭に浮かぶ。そこは実は2年前の同時期(12/25)に一度訪れた所だが、結構雰囲気も良くて所要時間的にも適当な所。陽の短い季節、迷っている時間はないので、思い付くままに登山口に乗り付け、15時少し過ぎ、登り出す。
 空が晴れてきたせいか、次第に周囲の空気が冷え込んでいく中、その寒気を撥ね返すほどに身体が温まる程度のペースで登りつつ、まずは「有明山将軍塚」へ。この古墳は一見すると単なる尾根の盛り上がりのようでもあるが、よく見ると明瞭な前方後円墳の形態を有する。近くの森将軍塚に比べれば、かなり侵食が進んでしまっている感は否めないが、それでもなお、この近辺のかつての繁栄を物語る貴重な遺跡の一つであることに変わりはない。なお、2年前にはなかった説明板が今回はしっかり設置されており、同古墳の有する意義がはっきり理解できて嬉しかった。
 古墳から頂上までは、ほんの15分程度で難なく到着。折しも、ちょうど夕日が西の山の端に傾きかけており、周囲が何ともいえず長閑な薄赤い色彩に染まってゆく中、私はとにかく今週もまた、何とか山に登れたことの安堵感と共に、いつにもまして心地好い汗を拭った。







 小川村・旧美麻村境の珠玉の秘峰〜蕎麦粒山
 12/16、小川村と旧美麻村(現:大町市)の境にある寂峰「蕎麦粒山」に訪問。この山、私としては、伊部高夫氏著の名ガイドブック『長野県北信・東信日帰りの山』(章文館刊)に収録されているのを見出して以来、一度は訪れてみたいと思いながらも、諸般の事情により、これまで訪れる機会を得られずにきたものだが、つい先日(12/2)訪れた信州新町の萩野山(萩野城址)の案内板で、偶然次のような一文を目にしたことから状況が一変。すなわち、寿永3年に木曽義仲が京都粟津ケ原で敗死の際、仁科家家臣の竹村兵部以下の一行は、主君義仲公の守本尊旭観音像を火災の中から抱え出して信州に走り、途中で首尾よく義仲公の遺児力寿丸を擁する樋口、手塚の一隊と合流の後、安曇の最北蕎麦粒山で鬼無里の安吹屋(注:現在「木曽殿アブキ」と呼ばれる地)へ向う一行と別れ、萩野山に辿り着いたという… この「安曇の最北蕎麦粒山」とは、まさしく小川村・旧美麻村境のそれに間違いなく、つい二週間ほど前に萩野山で、再び起つ日を期して同地に身を潜めた木曽義仲公遺臣の苦衷に想いをはせたばかりだっただけに、私としては、その蕎麦粒山とはどんなところなのか、是非、一刻も早く自身の目で確かめてみたくなってしまったのだ。
 そこで勇躍自宅発、国道406号の旧鬼無里村(現:長野市)・小川村境付近から左の林道を少し上がった峠から、右の山稜に取り付き、アップダウンを5つほど経て、最後に短いながら猛烈な急登を登り切って登頂。その間は全般的にずっと樹林の中の道ながら、落葉期が幸いしてか、戸隠連峰、飯縄山、四阿山などの眺めが適当に樹林越しに利いた上、頂上からは雪化粧した北アルプス後立山連峰の眺望が… かくも奥深く険しい地まで人目を忍ばねばならなかった義仲公遺臣一行も、これら悠久の山々の眺めには、さぞや心を癒され、かつ決意を新たにしたことであろう…







 ちょっと気になる佐久の里山巡り@〜明巖山
 12/23、佐久の物見山の西にある「明巖山(みょうげんざん)」に訪問。この山、今年の7/9に近くの寄石山などに訪れた際、たまたま地形図を見ていて、後掲の「凧の峰」と同時に発見したもので、その何かいかつい感じを受ける特徴ある山名、またそんな名に相応しく、小粒ながら地形図上からも一目瞭然の端整で鋭利な山容に惹かれるものがあり、以来ずっと訪問の機会を狙っていたものである。
 佐久市街地から志賀川沿いの道をさかのぼって物見山方面へ。途中「吉巾(よしはば)池」のすぐ先で左に分れる細い車道に入り、1kmも走らない所でさらに左に分れる「志賀山林道」入口へ。この林道にはゲートがあるので、以後は徒歩で、しばらく同林道を緩く下りつつたどると、そのうち左前方に、目指す明巖山の山容がきわめて良好に見渡せるようになってくる。その姿たるや、地形図上の想像よりなお鋭利な岩峰で、ことに左手の山稜など、ほとんど垂直な露岩だ。私はそれを目の当たりにして、山名の所以を漠然と理解すると共に、一抹の不安が胸中をよぎった。が… ここにほど近い西上州の山々のごとく、行ってみれば案外安全なところにルートが見出せるはずだと期待して、そのまま歩を進める。
 林道はじき終点に達したが、さらに小道が先に延びていた。突き当たった山稜に取り付き、か細い踏跡を拾いつつ、右から回り込むようにして登りつめると、思った通り、特に危険をおぼえる箇所もないまま登頂。頂上は周囲が樹木に囲まれ、山容の割に案外展望は利かず、高度感も希薄だったが、三角点標石の他に石祠が1基見出され、落ち着いた素朴な雰囲気で好感の持てる場所だった。







 ちょっと気になる佐久の里山巡りA〜凧の峰
 12/23、先の明巖山に訪問後、まだ若干時間に余裕があったので、明巖山と同時に最近地形図上で発見した「凧の峰(たこのみね)」に訪問。この山、明巖山よりさらに物見山寄りにあり、明巖山と同様、面白い山名にも惹かれたもので、標高的には明巖山以上だが山容的にはずっと女性的であることから、私としては明巖山への訪問を優先し、時間が余ったら次なる目的地にしようと、かねて胸中に秘めていたもの。
 と、思惑通り、明巖山の方が案外早く終わったので、私は次いで凧の峰の登り口へと向かう。もっともこの山、先の明巖山と同様、地形図上に道の表示があるわけではないので、登り口といっても、あくまで地形図上から最も登り易そうな所に見当をつけたに過ぎないので、行ってみないと判らないというのが正直なところであったのだが… そのへんがまた、この種のマイナーな山の面白味ではある。
 とはいえ、不用意に取付点を選定して、万一登頂に失敗すれば、折角の休日が台無しなので、たとえ短距離といえど相応に検討の上、「志賀牧場」付近で車道が最も凧の峰に接近しているあたりに車を走らせる。と、車道が物見山方面に向けて大きく左カーブしている地点の、ちょうどカーブの頂点あたりに、わずかながら駐車スペースがあったので、そこに駐車。ガードレールを乗り越え、わずか下って、すぐに丈の低い笹の中に続く薄い踏跡を拾いながら稜線上に上がると、後は疎林の中に続く笹原の山稜を、そのまま最も高い地点までたどるのみ。頂上は笹の中に三角点標石が目立たず沈んでいる以外、例によって標識もなかったが、樹間に荒船山方面などの見渡せる、案外明るい雰囲気の場所だった。







 2006年最後の山歩き〜大宮山(三日市場城址)
 12/24、この日はどうも朝からはっきりしない天候ゆえ、当初「山」は考えず、家族と共に温泉入浴などをしながら北安曇方面へとドライブしていた。が… 午後2時過ぎ、そろそろ長野へ戻ろうと、小川・中条村方面への道にさしかかった際、ふと私の脳裡に、確かこのあたりに山城址があったはずだという記憶がよぎった。されば、折角こっちに来ているのだし、せめて登り口の確認だけでも… と思い、ちょっとだけ時間をくれと家族の同意を得た上、「三日市場」の集落あたりに車を走らせた。その山城址とは、小穴芳実氏編『信濃の山城』(郷土出版社刊)の中に収録されている「三日市場城」。別名を大宮城とか宮原城とかいうもので、私は以前、地形図で大体の位置は確認していたのだが、今日は生憎、予定外とあって手元に参考文献の持ち合わせがなく、やむなく全くの手探り状態で山裾に沿って車を走らせているうち、国指定重要文化財という「神明社」の入口へ。
 ここまで城址の道標は一つも目につかなかったが、鳥居近くの神明社の案内看板の記述から、この裏山が間違いなく城址であることを確認。そこで家族を待たせておいて神明社の本殿前まで上がってみると、右手の樹林の中に踏跡が続いている。で… 家族には悪いと思ったが、ついついそこを登り出してしまい、ほんの20分ほどの後、首尾よく頂上の城址に到着。と… そこは予想以上に明瞭かつ規模の大きい段郭や空堀が巡らされ、また武田氏の築城の特徴を示す竪堀の遺構も見出されるなど、山城址としては結構興味深い一大史跡をなしている。然るに、案外訪れる人は少ないとみえ、ここですら案内看板の類は一つもなく、ただ、本郭址とおぼしき平地の片隅に1基のみ置かれている石祠が寂しげであった。