山行記録帳(2006)E
〜Yamazaki's Photo Diary 2006,E〜


 【山行リスト】
 長野市・信更町高野の虚空蔵山  松本市北東部の戦国時代の山城址〜伊深城山
 旧四賀村時代の名残濃き〜富士塚山  意外なほどに寂峰〜旧明科町の雷山(かんだちやま)
 「ヒスイ海岸」近くの山城址〜富山県朝日町の城山(宮崎城址)  碓氷峠の南の好峰〜矢ケ崎山
 意外な信仰の痕跡〜長野市・上ケ屋の愛宕山  好展望は山林火災の代償〜松本市・大正山
 とんだ災難〜一条ケ峰の南の920m峰  「滝山連峰」の最高峰〜松本市・入山
 もう1峰と粘ったばかりに、予想外の災難〜傘山  薄穂の中の静寂〜旧四賀村の四阿屋山
 甲斐の武田の侵攻に落城〜城山(刈屋原城址)  ついでにもう1峰〜上ノ山(上ノ山城址)
 小雨の中〜青木村の天狗山


 長野市・信更町高野の虚空蔵山
 10/9、三連休の3日目、長野市信更町の高野集落付近にある虚空蔵山に訪問。この三連休は既にいくつもの山に訪問していたことから、最終日くらいは家でノンビリ過ごそうかと思っていたのだが、皮肉なことに天候は三連休中、この日が最も穏やかだった上、昼過ぎに女房が子供達を連れて実家に出掛けてしまい、午後は家に私一人となってしまった。となると、さすがにどうも手持ち無沙汰の感は禁じ得ず、また穏やかな気候だったこともあり… ついに午後3時過ぎ、せめて近所の里山なりと… とて、慌しく家を飛び出すに至った次第。
 「虚空蔵山」という名の山は各所にあるが、長野市信更町にあるそれは、地元の人を除き、あまり知る人もなかろう。私も実は今年の4/8に、近くの信州新町水内にある飯綱山に訪れた際、地形図を見ていて偶然見出すまでは、その存在すら知らなかった。当然、何の事前知識もなかったが、それでも地図上での検討で、犀川に面した北側の急斜面よりは、南の高野集落の神社あたりから行くのがよかろうと予測しての訪問。
 高野の「明高神社」の下に駐車、地元の人に様子を聞いて歩き出す。少し上ると、じきコンクリート舗装された農道に突き当たり、それを左へ。さらに先の分岐は右へ、上りきった所が農地の最上部で、そこからは樹林の中に踏跡を拾いつつ行くと、右に回り込むようにして頂上。
 頂上は樹林の中で展望不良、標識も信仰の痕跡もなく、三角点があるだけという地味な頂だったが、それでも頂上近くの樹間からは、かろうじて雪化粧した北アルプス白馬連峰あたりが、とても前日に遭難があったとは信じ難いほど穏やかな様相で望まれた。







 松本市北東部の戦国時代の山城址〜伊深城山
 10/15、松本市の北東部にある戦国時代の山城址の山である伊深城山に訪問。この山、私としては以前、近くにある芥子望主山に訪れた後、付近の地形図を見ていて偶然発見したもので、最近山城址の山に注目している私としては、以来ずっと心の中にひっかかっていた山であったが、今回ようやく訪問の機会を得た。なお、今回も前週と同様、家族を伴わず私一人での山行だったので気が楽。
 登り口は松本市の伊深集落付近。室町時代に伊深城主の後庁氏が勧請したという(注:一説にはもっと古く白鳳期まで遡るともいわれる)若宮八幡社の鳥居をくぐり、社殿の右手に続く道をたどる。と… 道は意外にも、きわめて良好に整備されており、また要所ごとに標識もしっかり設置されているので、すっかり安心して歩けるという嬉しい誤算。山城址とはいえマイナーな山ゆえ、当初は多少の薮漕ぎも覚悟の上だったのだが、登山口付近の看板が何と平成18年(つまり今年!)の設置となっていたことから、案外今回の私の訪問よりわずか前に整備されたのかも知れない。途中、慶弘寺公園への道と分かれて左へ進み、明瞭な郭や石垣の遺構を眺めつつ行くと、ほどなく本丸址の頂上に立つ。
 頂上は周囲を低い土塁に囲まれた、いかにも山城の本丸址らしい場所。手前に城址の説明看板、奥に「石尊大権現」の石碑が建っている他には特別目につくものもなく、また周囲も樹木に囲まれ、展望的には樹間に松本市街方面などが望まれる程度という比較的地味な場所ながら、その分いかにも里山らしい、素朴で落ち着いた雰囲気に、私はしばし周囲を見回しつつ、心地好い汗を拭った。







 旧四賀村時代の名残濃き〜富士塚山
 先に伊深城山に訪問し、とりあえず今日(10/15)の当初の目的は果たしたが、今日の私は単独。家族連れによる制約がない貴重な機会ゆえ、日が昇っている間は、できるだけ時間を有効に活用したい… というわけで、たちまち次なる目的地をにわかに設定。
 その次なる目的地とは、旧四賀村にある「富士塚山」。この山、私としては以前から保福寺峠方面への車道を通行する際、山麓の集落付近の北に、頂上にアンテナの立つ意味あり気な姿を目にする度に心の隅にひっかかっていたものだが、たまたまつい最近発刊された伊部高夫氏著『長野県中信・南信日帰りの山』(章文館刊/なお、同書は姉妹編『長野県北信・東信日帰りの山』と共に、信州の素朴な里山を愛する向きには必携ものの好著!)の中に同山が紹介されていたことから、そのうち参考までに訪れてみようと機会を狙っていたところ。
 登り口は旧四賀村の赤怒田付近にある「錦織神社」の鳥居前。コンクリート舗装された急な道を、途中「金毘羅大権現」の祠などを見つつ上がり、ほどなく社殿へ。さらにその裏手の白洲のような稜線を登り、両側に旗立石があるへんから左の樹林をトラバース気味に進むと、そのうち広い道に出る。ここまで来れば頂上は目と鼻の先。じき旧四賀村で設置した「富士塚桜公園」の石碑を左に見る。脇には由来書の石碑もあり、それによれば平成4年度に村おこし事業の記念として付近を公園として整備した旨記されている。が… 皮肉にもこれを設置した四賀村は今や松本市に合併消滅。何か複雑な気分と共に後を振り返ると、そこには北アルプス常念山脈あたりの山並みが、雲海の上に薄く悠久の姿を見せてくれていた。







 意外なほどに寂峰〜旧明科町の雷山(かんだちやま)
 伊深城山、富士塚山と訪問し終わった時点で、時刻はまだ15時くらいで、なお空には十分明るさが残っている。しかも今日の私は単独。となると… 折角の機会、ついでにもう一つ… というわけで、ついに本日(10/15)3つ目の山を思いつく。その山の名は「雷山」。普通に見ればカミナリヤマと読めそうだが、国土地理院の地形図によれば「かんだちやま」とわざわざルビがふってある。標高731mという低山ながら、その面白い名からして、何やら地域の言い伝えと結びついていそうに感じられ(注:もっとも、現時点では不明)、一度は参考のために訪れてみたいと思っていたところ。
 そこで、早速国道19号線を北上し、旧明科町(現:安曇野市)の「木戸橋」のたもとを右へ、筑北村方面への国道403号線に入って200mほどの所でまた右折、尾沢集落手前のへんで右に斜上する踏跡を見出したところで道脇のスペースに駐車し登り出す。その道は別に登山道でもないらしく、しばし歩いて石仏が目についたあたりの上部では踏跡が錯綜したが、とにかく高い方を目指して登り、やがて地図上の頂上らしい地点に達したが、そこは意外にも標識一つなく、ただ薮の中に藤蔓がさながら注連縄のごとくからみついているだけの地味な場所。これにはさすがに拍子抜け、またいささか物足りないので、さらに東に稜線をたどり、地図上810mの峰まで進んでみたが、こちらもまた、登りの途中で石祠が1つ目についた以外、やはり特に標識もなく、ただ頂上で長野県設置の「堀平地すべり防止区域」の「標柱1号」なるものが目についたのみ。それでもこちらは先刻の雷山頂上に比べ、樹間に戸谷峰や鉢伏山方面の眺めが利いただけ、多少雰囲気が明るく、また足元に野菊の花が鮮やかだった。







 「ヒスイ海岸」近くの山城址〜富山県朝日町の城山(宮崎城址)
 10/18、たまたま所用で富山県に訪れ、朝日町を通過中、多少時間に余裕があるので、近くにある「城山」(宮崎城址)に立ち寄っていくことにする。
 この山城址、有名な「ヒスイ海岸」こと宮崎海岸のすぐ近くに登り口があるのだが、さすがに同海岸の賑わいの前には存在がかすんでしまうのか… よく整備された地の割に人影はまばら。然るに現地案内看板によれば、存外歴史の古い城址のようだ。折角だからその内容を、備忘の意味も含めそのまま引用掲載しておこう。
 「富山県指定史跡 宮崎城跡 寿永元年(1182)京都を脱出された北陸宮は、木曽義仲に属する豪族宮崎太郎長康に護られて宮崎に居住し、八幡山(この城山)に御所を造営せられた。これが宮崎城のはじまりで、この後皇位継承の望みを断たれた北陸宮の入洛後は、承久の変(1221)の戦場となり、戦国末期は上杉方、佐々方の武将も居城し、安土桃山時代には前田家が家臣の高畠、小塚などの武士を配していた。江戸時代に入り、境関所の整備に伴い廃城となったが、宮崎城跡は県下最古の山城の一つに数えられている。」
 また、この地には戦時中、旧日本陸軍の電波技術研究所が設置されていたそうだが、現在、本丸址の直下まで通じている結構立派な道は、その工事の一環で、往時の深い空堀部分が埋め立てられ造営されたものという。それは貴重な山城遺構の破壊である反面、道自体はきわめて歩き易く… いささか複雑な気分ではある。
 ともあれ、「山」としては標高248.8mという超平凡な地ながら、以上のような歴史を知りながら歩けば、また興味も格別。最後に石段を上がり、三角点標石のある頂上の本丸址に出ると、そこからは眼下の宮崎海岸などの眺めが雄大で気分爽快。やはり、たとえ小さい山でも、訪れれば訪れただけのことはある。空模様は明るい割に、遠方は霞んでさほど見通しがきかず、「大蓮華の山々雪を荘厳す ふるさとの秋深まりしかな」といった景観までは残念ながら望まれなかったが…(注:城址の一角に建つ歌碑に刻まれた地元の歌人・廣川親義の短歌。大蓮華山とは白馬岳の別称)、それでも短時間ながら私には十分意義のある一時ではあった。







 碓氷峠の南の好峰〜矢ケ崎山
 10/22、軽井沢の東、碓氷峠の南の上信国境上にある「矢ケ崎山」に訪問。この週末は何かと所用が多く、さすがに山は半ば諦めていたのだが… 所用が全て片付き、家族で昼食を摂り終わった時点で、我々はたまたま上田市にいた。時刻は既に午後2時近かったが、暗くなるまでにはまだ数時間ある。となると、折角の日曜日、せめてどこか軽い所でも… などと、例によって私の因果な腹の虫がうずき出す。
 そこで、にわかに思いついたのが矢ケ崎山。この山、実は前々週の10/8に、碓氷バイパス入山峠南西の1,169m峰に訪れた際、昭文社地図『西上州・妙義』で付近の地形を参照していて、たまたま発見したもので、有名な軽井沢のプリンスホテルスキー場の東にある山だが、すぐ北の碓氷峠から上信国境の稜線伝いに登れそうに見えたことから、以来、もし機会あらばと狙っていたもの。然るに、その機会は案外早く訪れた。
 で… 登山口の碓氷峠に到着したところ、時刻は既に15時過ぎ。さすがに幼少の子供同伴はキツそうに思えたので、家族にはしばらく車で待っていてもらい、その間私一人で早急に頂上を往復。と… 山稜上には事前の予想以上に明瞭な道形があり、歩行には全く支障なし。道は頂上直下で少々急登となるが、難なく右から回り込むようにして登頂。頂上には三角点標石と「安中の山に登ろう会」で取り付けた手製の山名標示板があったが、それより何より驚かされたのは周囲の展望。北西の浅間山や離山、また南東の稲村山、高岩、妙義連峰、谷急山など…!
 にわか思い付きの山にしては、期待以上の良き頂上に、思わず快哉! 私は安堵感と共に、しばし周囲の眺めを味わった。







 意外な信仰の痕跡〜長野市・上ケ屋の愛宕山
 10/28、長野市上ケ屋の「大座法師池」のすぐ南東にある小峰「愛宕山」に訪問。この山、実は私はつい最近まで、その存在すら知らなかったのだが、去る10/8に、軽井沢和美峠付近の愛宕山に訪れた後、三省堂の『日本山名事典』で同山について調べている際に偶然発見し、しかもそれが何と私の住む長野市内にあるということで、直ちに地形図で所在を確認の上、近所に行った際には是非ついでに訪問を… と、密かに機会を狙っていたところ。すると正に今日、たまたま午前中が子供の幼稚園の行事でつぶれ、正午過ぎに昼食ついでに戸隠高原に上がって子供達を遊ばせた帰り、「戸隠バードライン」を下ってきて、この山の麓にさしかかったのだ! その時点で日没までわずかに時間が残っていたので、にわかに訪問を決意、家族には少々待っていてもらうことにして、やや大座法師池寄りの道路脇のスペースに駐車、北側の尾根伝いに樹林内に踏み込む。
 と… 山稜上には一応、か細いながらも踏跡あり。距離的には取付から頂上まではほんの150mほどゆえ、一気に駆け上がると、頂上直下でいきなり石碑に出くわし一驚。また頂上では石祠にお目にかかって2度びっくり。こんな目立たない山に…! 山名からして頂上の石祠はおそらく愛宕神社だろうが、石碑の方は、表面に何か文字が刻印されているものの、既に夕刻が迫っていて薄暗く、残念ながら文字は断片的にしか判読できず。ただ、その石碑から東の斜面に、先刻たどった踏跡よりもずっと明瞭な道があったので、帰りはそれを下ってみると、じきバードラインの縁のフェンスに突き当たり、最後はそれを伝って少々南に歩くと、フェンスが切れた所で無事バードラインに下り立てた。







 好展望は山林火災の代償〜松本市・大正山
 10/29、家族同伴で松本市の「大正山」に訪問。この山、有名な浅間温泉の東に、何やら意味あり気に樹林が伐採されている明るい山肌を見せており、一見、最近はやりの里山森林公園の類に見える。実際、今回私が同山に家族同伴で訪れたのも、好天下、久々に家族と一緒に軽く里山で憩いの刻を過ごそうと思ったためだった。が… それにしては、山麓に車を走らせても、何故か標識もないし登り口も判然としないのだ。
 妙だなと思いつつ、付近を物色すると、同山直下のやや美鈴湖寄りに走ったへんで、ようやく登山道らしきものを見出したので、付近のスペースに駐車し、早速家族で登り始めたが… 道は一応明瞭ながら、どうも様子が変だ。そこまで行っても何の案内看板も道標もない上、道には所々、両側から草が迫っている箇所があるなど、どうも当初想像したような森林公園という雰囲気ではない。しかも… 途中から伐採された明るい山稜を行くうち、足元に集積された伐採木が、いずれも黒く炭化しているのに気付き、私は初めて真相を理解した。何と、ここは山火事の跡地だ!
 驚きさめやらぬうち、頂上に到着。そこには三角点標石の他、意外にも大正4年建立の「今上陛下御即位記念林 大正山」と記した石碑などが立ち、地元では以前から登られていたことが判る。また、それらとは別に「訓 平成十四年三月廿一日山林大火災」と記した「大正山山頂」の木柱などもあって、私もようやく思い出した。そう、当時ニュースでも大騒ぎになった、あの山火事の現場が、正にここだったのだ。
 何か複雑な気持ちと共に、改めて周囲を見ると、松本市街地の俯瞰をはじめ、戸谷峰など周囲の山々の展望が素晴らしく、またそんな明るさゆえか、我が子供たちは、何も知らずに無邪気にはしゃぎ回っており… まがりなりにも家族と山での憩いの刻は過ごせた次第。







 とんだ災難〜一条ケ峰の南の920m峰
 10/29、先の大正山への訪問後、まだ少々時間があったので、去る10/15に訪れた伊深城山の北にあり、同山の記録執筆時に地形図上で偶然発見し気になっていた「一条ケ峰」あたりを「偵察」してみようと思いつく。
 そこで、国道143号線沿いで同山の南西にあたる杏(からもも)の集落あたりから少々上がり、通行止め標識のあるへんに駐車、家族には少々待っていてもらうことにして、早速薮がちな道に分け入り、まずは当面眼前にある稜線上に上がる。ここで一条ケ峰へは本来なら左なのだが、この時は右に見える峰の方が明らかに高かったため、つい右の稜線をたどってしまった(注:にわか思い付きの山だったため、手持ちの地形図がなく、家に戻ってから間違えたと判明)。それでも途中までは、山林作業道並みに明瞭な道形があったが、そのうち急登になるとともに、茨の多い鬱陶しい薮をかきわけての進行となった。これには少なからず難渋させられたが、それでも足元に咲き誇る清楚な野菊に心を癒されつつ、ようやく達したピークは地形図上920mの等高線のある峰。樹林に囲まれ展望はなく、また当然のごとく何の標識もない地味な場所。いささか釈然としない思いで周囲を見回すと、そこより若干高そうな峰が東方に望見されたが、さすがに時間的にそちらまで足を延ばす余裕はなく、元来た道を引き返した。
 かくて、本来の目標と異なる峰に登頂して帰るという、実に間抜けな真似をやらかした挙句、車まで戻り着いて装備収納中、湿った地面に足を滑らせ、派手に転倒して右肘負傷と右脇腹から上腿にかけて打撲傷を負うという、とんだ災難に遭い、ほうほうの体で家路についた。






 「滝山連峰」の最高峰〜松本市・入山
 11/3、中信と東信との境界上に大きく横たわる「滝山連峰」中の最高峰である「入山」に訪問。同連峰には、最近北の十観山から南の保福寺峠まで良好な縦走路が整備され、本来なら、その縦走の中で立ち寄りたいところなのだが、諸事情から今回は単発での訪問を選択。旧四賀村側から入山の西側山腹に食い入っている林道を利用してアプローチし、後は適当にルートを探りつつ登ってみようという魂胆。
 往路は「小胡桃」集落からの林道から入る。この林道、道幅も狭く路面もダートで緊張させられたが、途中の分岐も迷わず通過、かなり上部まで車で進入できた。ただ、最後の分岐から先は、路面状態から限界と判断し付近に駐車、後は徒歩でしばらく林道をたどった上、適当な所で左手の山稜に這い上がり、樹林の中に続く獣道のような錯綜する踏跡を、歩き易そうな所を選びつつ、とにかく上へ上へとたどる。
 しばし奮闘の末、登り着いた所は、目指す入山頂上のすぐ南西の1,610mピーク。まずは一安心して周囲を見ると、何と、そこから南西に派生する稜線上には明瞭な踏跡があるではないか。それも、どうやら地形図上林道の終点あたりから延びている模様。したり、それなら最初からこれを登ればよかったと思ったが、こうしたことは事前情報僅少の山の常、気を取り直して最後のアップダウンを頂上へとたどる。
 結局、駐車場所から頂上まで、ほんの1時間少々という存外短時間で登頂。樹林に囲まれ展望は不良だが、静寂で好感の持てる頂上。なお、頂上は連峰縦走路からやや西に外れているが、少し歩を進めて縦走路から入山への分岐点を確認の上、頂上に引き返して下山に移る。帰りは先の1,610mピークから、例の明瞭な踏跡を下り、思った通り林道終点に下り立ち、後はそれを歩いて無事駐車場所まで戻った。







 もう1峰と粘ったばかりに、予想外の災難〜傘山
 11/3、先の入山への訪問後、私は今度は往路でなく保福寺側の林道に下りてみたが、こちらの林道の方がずっと整備状態が良く、存外早く保福寺集落に下りることができたので、例によってもう1峰と、旧四賀村の傘山(からかさやま)への訪問を思いつく。この山、10/15に訪問した富士塚山の東にある山で、その何か意味あり気な山名から、いずれ機会あらばと狙っていたもの。早速、宮前のバス停付近から北に分かれる道に入り、「春日神社」の脇を抜けて細い林道を可能な所まで車で乗り入れ、さらに上方に見える送電線鉄塔を目安に樹林の中に分け入る。
 林内には案外明瞭な道があり、しばらくの間は順調に登行したが、送電線が頭上にさしかかるあたりから怪しくなった。やむなく茨のある薮を強引にかきわけながら送電線巡視路に出ると、傘山頂上のすぐ西のピークの送電線鉄塔までは巡視路伝いに難なく登れたが、そこから目指す頂上までの間は、短距離ながら、またしても茨のある薮の突破を余儀なくされ、当初の気楽な寄り道気分など完全に吹っ飛んでしまった。それでも、どうにか頂上直下まで進み、まるで主のように太い松の木や、「唐傘山の風穴」なる標識のある穴、さらに頂上付近では小祠も現れ、いかにも地域の里山らしい雰囲気となった。三角点は小祠のすぐ先に首尾良く見出すことができ、ほっと一息。まずは大成功、と思いきや…
 この後、私は下山時に錯綜する踏跡に尾根を一本北に間違え、穴沢集落側に下ってしまった上、すぐ日没で暗くなり、駐車場所に戻れなくなるという予想外の災難に遭遇(!)。タクシーを呼ぼうにも財布は車の中に置き忘れ、またタクシーが細い林道に進入してくれるわけもなく… 結局は携帯電話で女房に頼み込み、はるばる長野から迎えに来てもらうハメに(!)。帰宅後、私がどんな目に遭ったかは御想像にお任せする。







 薄穂の中の静寂〜旧四賀村の四阿屋山
 この三連休は、初日の11/3からして傘山でとんだ失敗をやらかしたので、さすがの私も11/4は神妙に「自宅謹慎」したが、11/5には恐る恐る女房に外出を持ちかけると… たまたま二女が風邪気味ゆえ、私1人で出掛けてもいいと言う。私はこれを聞くや、女房の気が変わらないうちにと、慌しく仕度をして家を飛び出した(!)。もっとも、あまり調子に乗ってまた失敗せぬよう、この日はあえて小峰巡りに徹することに。
 で… 最初に訪れたのが、旧四賀村の寂峰「四阿屋(あずまや)山」。この山、実は11/3に訪問した入山のアプローチを地形図上で検討している際、偶然旧四賀村の矢久集落の西に「四阿屋神社」の標示のあるピークを見出し、気になっていたもので、地形図上では山名は不明だったが、いざ現地に訪れて地元の人に聞いてみると、神社の名と同じく「四阿屋山」とのこと。ちなみに同名の山が筑北村にもあるが、そちらは「筑北三山」の1峰という「ハク付き」なのに対し、今回の旧四賀村の方は、本当に素朴な地域の里山といった趣。登り口までは矢久川沿いの道から同山の東山腹を巻くように細い林道を上がり、頂上の南東寄りの稜線の縁に駐車、後はその稜線伝いに登れば、ほんの15〜20分で登頂という手軽さだが、意外や、そんな一見身近な山の割には、頂上は薄などが生い茂った薮がちの場所で、あまり人が訪れることもなさそうな様子。素朴な「四阿屋神社」の祠も薄の穂の中に隠れるように、ひっそりとたたずんでいた。地元の人の話によれば、毎年5月には祭礼があって結構大勢登るという話なのだが… 雰囲気的に、どうも賑わうのはその時だけらしい。もっとも5月ならまだ下草もさして高くない時季だし、特に祭りに支障はないのだろうが。






 甲斐の武田の侵攻に落城〜城山(刈屋原城址)
 11/5、先の四阿屋山に登頂後、私は同じ旧四賀村の穴沢集落方面に向かい、11/3に大失敗をやらかした傘山周辺の「実況見分」を行った上、次いで今度は刈谷原集落へと車を走らせた。目的は、その付近にある「城山」への訪問。普通「刈屋原城」と呼称され、地元では「鷹巣根城」と呼ばれている戦国時代の山城址の山だ。この城、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)によれば、小笠原長時が林城から逃亡した3年後の天文22年、甲斐の武田信玄が村上義清の本拠に最後の襲撃をかけるに際し、まずその矢面に立った城で、当時小笠原系の太田資忠が守っていたが、多勢に無勢、武田の攻撃開始後わずか3日で陥落、城主は生け捕られたという、壮絶な実戦場であった場所とのこと。
 そのような、いわば歴史上の一つの重要なターニングポイントにある山城址の山の割には、実際に現地に訪れてみたら、特にはっきりした道も道標もなく、ただ頂上の本丸址に「鷹巣根城跡 四賀村教育委員会」と記した木柱が1本と、石祠が1基、それに四等三角点標石があるだけという、意外なまでに人気のない静寂な場所であった。この山のほぼ直下には、豊科方面と四賀方面とをつなぐ「刈谷原トンネル」が抜けており、今も昔も交通の要衝的位置を占めているにもかかわらず… ちなみに私は、その刈谷原トンネルの豊科側の入口手前から左に入る車道を、ほぼ城山の真西の峠まで上がり、そこから城山側に向けて延びる細い林内作業道をたどって、最後は南の稜線の踏跡伝いに登頂したが、このあたり、峠からしばらくの間は林内作業道の両側が茸止山である上、違反入山者の罰金額が異常に高額ゆえ、案外それが訪問者の少ない一因なのかも…(?)






 ついでにもう1峰〜上ノ山(上ノ山城址)
 11/5、旧四賀村の四阿屋山、城山(刈屋原城址)、と訪問した後、私は帰途につくつもりだったが… 時間はその時点で15時半くらいで、まだ暗くなるまでに少々時間がある。と… 例によって、また私の因果な腹の虫がうずき出し… 折角だからと、帰り道にほど近い旧豊科町(現:安曇野市)の「上ノ山」に立ち寄っていこうと思い立つ。この山もまた、先刻の城山と同様、戦国時代の山城址(上ノ山城址)のある山だが、こちらの城址は上ノ山の頂上ではなく、同山から北方に派生する尾根上に築かれている点が、先刻の刈屋原城址と違う点だ。小穴芳美氏編『信濃の山城』(郷土出版社刊)等によれば、近くの光城の出城であったとのことだが、特に目立った実戦記録はないらしく、おそらくはこの地方への甲斐の武田氏の侵攻に際し、近隣の多くの城と同様に籠城し、落城あるいは開城していったものであろう。
 この山へのアプローチは容易で、田沢付近で国道19号線から分れて旧四賀村方面に向かう途中で右(南)に上がる「豊科ゴルフ場」への道を行けば、楽に頂上直下まで達してしまうが、私は城址も見たいので、同山の北で車道が大きく左にカーブしている地点にある「豊科町指定史跡 上ノ山城跡」の標柱から入り、城址経由で登頂した。城址は郭の遺構が明瞭ながら、出城だけに比較的小規模。そこから急斜面を上がり、小祠のあるピークを過ぎ、作業道を横切り、後は広い道をわずかで頂上。そこには意外にも配水池施設があり、三角点標石がなければ、およそ頂上らしくない場所ではあったものの… それでも限られた時間の中、まがりなりにも本日3峰目の頂に立ち得て、私は相応の充足感を味わった。






 小雨の中〜青木村の天狗山
 11/11、青木村の天狗山に訪問。この週末はどうも天候の加減が芳しくないらしく、11/11も終始、小雨が降ったり止んだりの、どうもすっきりしない空模様。それゆえ私も、この日はさすがに昼近くまでは家でごろごろしていたのだが… そのうち雲の切れ間から、わずかばかり陽光が射しこむに及び、ついにいてもたってもいられず、家を飛び出してしまった。それで私が向かったのは、青木村の大明神岳のすぐ北に位置する「天狗山」。以前、大明神岳付近の地形図を参照していた際に偶然発見したもので、車道が結構近くまで食い入っているので、手軽に訪問できそうな山として、ずっと心に留めてきたものだ。まさに今日のような状況下での訪問にはうってつけの山というわけ。
 青木村の田沢で国道143号線から分れ、沓掛温泉方面への道を進み、さらに大明神岳の東山腹で右に分かれる林道に入る。大明神岳の登り口からほんの300mほど行った所から、また右に分かれる林道に乗り入れると、そのうち別荘地の中を通過して、配水池施設の方へと上がって車道は終わる。天狗山はそのすぐ上で、そのまま樹林の中を直登してもいいかと思われたが、生憎の小雨模様ゆえ、わざわざ薮の露で服を濡らすこともないと思い、あえて配水池施設の手前のカーブから左に分岐する細い林道を徒歩でしばしたどり、その終点から天狗山の北西に延びる尾根上に上がって、後はその尾根伝いに、石祠が1基祀られている静かな頂上へ。頂上周囲は樹林に囲まれ、展望はそう豪快とはいかなかったが、それでも樹林越しに近くの大明神岳や、また11/3に訪れたばかりの入山あたりが望まれ、天候の割に案外遠くまで見通しが利いたのが嬉しかった。