山行記録帳(2006)A
〜Yamazaki's Photo Diary 2006,A〜


 【山行リスト】
 広島県江田島の名峰@〜クマン岳  広島県江田島の名峰A〜古鷹山  「猪突猛進」の恐怖〜篠山
 余剰時間に〜小坂城址へ再訪  十数年ぶりの虚空蔵山  陽だまり里山散策第3弾〜海ノ口城址など
 不覚、二度手間〜南相木・南牧両村境の城山  信州新町・上奈良尾付近の飯縄山に訪問
 「山清路」脇の寂峰〜金戸(かなとこ)山  最高点は何と相撲の土俵!〜生坂村・高津屋山
 旧三水村の城山(若宮城址)に訪問  寄道〜矢筒山に訪問  所用の合間に〜信州新町・五百山など
 佐久市志賀の三峰山(志賀城址)に訪問  雨の合間に〜信州新町水内の飯綱山


 広島県江田島の名峰@〜クマン岳
 このたび、たまたま家族と共に広島の方に訪れる所用があったが、それを幸い、どこか近隣の山に訪れてみようと思いつく。とはいえ… あくまで所用の合間とあって、許された時間は翌日未明から午前9時少し前までの間のみ。それでも、信州人の私が広島に訪れるなど、これから先も何度あるかも判らない貴重な機会。にわかに地図で検討した結果… 江田島の「古鷹山森林公園」近辺なら、何とか登って来れそうだと見当をつける。
 そこで、その日は早々に就寝、翌日4時起きを予定したが… いざとなったら、何と2時頃には早くも目が覚めた(!)。これ幸いと早速宿を出たが… さすがに早過ぎ、途中、呉市の「休山」(注:ほとんど頂上まで車で上がれる490mほどの山、かつては旧海軍の要塞地帯で立入禁止)の頂上展望台に寄り道して呉の夜景を眺めるなど時間調整を図ったが、それでもなお目的地の古鷹山森林公園に着いた頃にはまだ周囲は闇の中。とはいえ、ただ車中で時間をつぶすのも惜しく、結局明るくなるまでの間に、古鷹山の北西にある「クマン岳」という変わった名の山に訪れてみることに決す。
 で… 早速、ヘッドランプを頭に登り始めたが、闇に目が慣れると、月明かりの下のせいか暗い割には比較的視界良好、かつ道も良く整備されていて案外快適な登行。時折眼下にひらける能美島あたりの夜景も、灯火が島の陸地と海面との境をくっきりと浮かび上がらせて、なかなか風流。そのうち「烏帽子岩」なる特徴ある露岩を通過、さらにしばらく登って頂上に到着したが、その頃になって、ようやく東の空がうっすらと白み始めてきた。
 それとともに、次なる目標の古鷹山も次第にくっきりと見え始めた。私はしばし周囲の黎明の景観を楽しむと、元来た道を引き返した。







 広島県江田島の名峰A〜古鷹山
 先のクマン岳での時間調整後、私は本来の目標である古鷹山に登り始めた。実はこの古鷹山、私は以前からその存在を知っており、是非一度は訪れてみたいと思っていたところ。というのは… この山、江田島の旧海軍兵学校の裏山で、当時は兵学校生徒が心身の鍛錬のために幾度となく上り下りしていた山であり、それゆえ、いわゆる「海兵もの」の映画を観ると、必ずといっていいほどこの山での訓練シーンにお目にかかったもので(注:大映『ああ海軍』『ああ江田島』『海兵四号生徒』等)、その男性的な山容とも相俟って、いつしか我が憧れの山のひとつとなっていたものである。
 また、そんな山だけに、行くみちみち適所に設置されている道標の標柱部を見ると、海兵の自省自戒の訓であった「五省」の条項が順次記されている。「至誠に悖るなかりしか」「言行に恥ずるなかりしか」「気力に欠くるなかりしか」「努力に憾みなかりしか」「不精に亘るなかりしか」… いずれも現代社会にまで通じる訓ばかりであり、これらを一つ一つ自身に照らし、かみしめつつ歩を進める中、自然、心身が引き締まってくる思いがする。
 かくて達した頂上は、映画などで観た通り、江田島湾や広島湾を一望の下に見渡せる、明るく展望の良い岩峰。当然眼下には、今は海上自衛隊第一術科学校となっている旧海軍兵学校あたりが俯瞰されるが、その海兵の校歌『江田島健児の歌』の歌詞に、次のような一節がある。
 「古鷹山下水清く 松籟の音冴ゆるとき 明けはなれゆく能美島の 影紫にかすむとき 進取尚武の旗あげて…」
 折しもここで陽が昇り、それと共に眼下の術科学校にラッパの音と号令が響いた。最初の号令は良く聴き取れなかったが、多分起床の合図だったのだろう。次のははっきり「乾布摩擦!」。私は、何やら奇妙な感慨と共に「明けはなれゆく能美島の 影紫にかすむ」情景などをしばし眺めた。







 「猪突猛進」の恐怖〜篠山
 2/25、長野市・千曲市境にある篠山(しのやま)に訪問。この山、去る1/28に訪れた小坂山のさらに西に位置し、頂上近くまで車道が延びていることから、当初は至極軽く考えての山行だったが… 思いもよらず、頂上近くで全く予想だにしなかった恐るべき体験を味わうハメになった。
 残雪ゆえ「猪平溜池」のかなり下までしか車は入らなかったが、それでも、溜池のへんから長野市・千曲市境の稜線に沿って、地図にない踏跡を見出せたのは収穫。急登を乗り越え、三角点ピークの直下まで達した頃… 私は付近の雰囲気に異変を感じた。何か動物の気配。私は、ああ、またカモシカか、と思いつつ、上方を見上げると、果たして何やら薄黒いものが樹間をよぎるのが見えたが… 次の瞬間、私の全身の血は凍りついた。
 カモシカじゃない、あれは猪だ! それも4〜5頭! と、そう思う間もなく、何と、その猪の群れが、リーダーらしい1頭を先頭に、私めがけて文字通り猪突猛進してきたではないか! 私は「何っ!」と思ったきり、思考が一瞬真っ白になるほど狼狽した。冗談じゃねえ、5対1では勝ち目がない!
 私は瞬間、無意識のうちに、手にしたスティックを、さながらウルトラマンレオのモロボシダン隊長のごとくに構えていた。そして思わず「ウォッ!」と叫び… と、次の瞬間、猪の群れは何故か、左にわずか向きを変え、ものすごいスピードで私の右方を南東の峰に向けて走り去っていった…
 周囲に静寂が戻り、緊張し切った力が一気に弛緩。参った。大体「猪平」なんて地名からして妙だとは思ったが… それにしても、まさか本物の猪に遭遇するとは…(!) 私は、以後は熊鈴の類を派手に鳴らしつつ、どうにか頂上に達した上、早々に頂上直下の「展望広場」に下った。そこには立派な東屋があり、名の通り展望も良く休憩には最適。私はそこに腰を掛け… ようやくほっと一息つきながら、先刻の冷や汗混じりの額の汗を拭った。







 余剰時間に〜小坂城址へ再訪
 先の篠山への訪問後、中途半端に時間が余ったので、その有効活用にと、近くにある小坂城址に訪問。ここは1/28にも既に一度訪れた所だが、その際、帰ってから調べたところによると、1/28の訪問時には見落としたが、この城址にも付近の塩崎城址などと同様、結構顕著な石積の遺構が見られることが判明したため、参考までに是非一度見てみたく、この機会に前回とはルートを変えて訪問してみた次第。
 今回は、南の長野自動車道のすぐ上の登り口から訪問。山城址らしく矢竹の繁茂する中の道をしばらく上がると、果たして情報通り、本郭址のすぐ北の深い掘割の直下から、その右手の斜面にかけて石積が出現。事前に予想したほどには大規模ではなく、また結構崩壊も進んでいるようながら、最近この近辺の山城址の石積遺構に興味を抱いている私の目には、これはこれで十分に見応えあり。
 なお、今回は時間もあまりなかったので、小坂山頂上への訪問はやめ、本郭址から眼下の長野自動車道あたりを俯瞰してから下った。






 十数年ぶりの虚空蔵山
 3/4、上田市・坂城町境の虚空蔵山に訪問。この山には、私は十数年前に一度、太郎山から稜線伝いに訪れたことがあり、その堂々たる山容や、展望良く高度感にあふれる頂上の雰囲気に惚れ込んだものであるが、そこに至るまでの道たるや、文字通りの茨の道で進行に大いに難渋したことから、以後どうも再訪に乗り気になれないまま今日に至ってしまっていた。
 ところが… つい最近、ふとしたことから知り合った地元の方が私に手紙をくれ、開封してみると、何と例の虚空蔵山の西側ルートが昨年の11/3に開通した旨の案内状が! それによれば、退職後3年もかけて道の整備に努められ、ようやく完成されたとのこと。私は一読して、あの猛烈な茨の道を…! と驚き、次の瞬間には、この機会に何としても同山への再訪を果たしたいとの強烈な思いが胸中に湧き上がった。
 そこで、手紙を受領してから数日経った今日、早速同山目指して自宅発。「勝負平林道」脇の登山口から稜線上に上がり、左へ虚空蔵山への道をたどっていくにつれ、私は改めて驚きと嬉しさが入り混じった感慨をおぼえた。十数年前、あれほど難儀した茨の薮のイメージなど微塵もなく、実に歩き易く変化に富んだ素晴らしいルートに変貌しているではないか! 「陣場鳥越山」「高津屋山」「鳥小屋山」と経て、最後の急登をトラロープ頼りに明るい頂上に立つ。と、そこからは快晴下、遠く北アルプス連峰はじめ、美ヶ原、蓼科山、烏帽子岳、四阿山などの白銀の峰々の大パノラマ! 思えば十数年前の訪問時も同様に晴天だった… 私は当時の感激を思い起こしつつ、霧氷に美しく彩られた頂稜部をしばし逍遥した。







 陽だまり里山散策第3弾〜海ノ口城址など
 3/11、この日は晴れ模様で結構温暖な陽気だったことから、久々に家族全員での「陽だまり里山散策」を企画。今回の目的地は、南佐久の南相木・南牧両村境上に位置する「城山」。その名の通り、戦国時代の城址(海ノ口城址)がある山で、地形的にも歩行時間的にも家族連れには適当と判断し訪問。ちなみにこの城、一の郭址の説明板等によれば、甲斐の武田信玄の父・信虎が大軍で攻めたが陥ちず、やむなく引揚げの際、当時16歳の信玄が殿(しんがり)を願って数百の兵を率いて引き返し急襲、折しも武田勢後退を見て備えを解いていた城では有効な反撃ができず、ついに落城したとのこと。しかもこれが信玄初陣の手柄だったというおまけ話までついているのだが、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)によれば、この話の出典は内容に脚色箇所が多いことで知られる『甲陽軍鑑』とのことゆえ、全く鵜呑みにするわけにもいかないようだ。
 もっとも、歴史の真実がどうあれ、そこが我々に格好の体験活動の場を提供してくれることに変わりはない。かつてそこで両軍死力を尽くした戦いがあったことなど信じられないほど長閑な雰囲気の中、駐車場所から子供連れでも1時間もかからぬうちに東屋のある一の郭址に到着。往時の遺構確認に付近を歩き回ると、山稜上に数条の堀切や郭が見られたが、中でも一の郭のすぐ東の空掘は結構深くて見応えあり。
 なお、下山後の余剰時間を利用し、帰りにもう一つ旧臼田町(現佐久市)の「城山」(稲荷山城址)に立ち寄っていく。もっともここは山城というよりは平山城で、一帯は公園化しており麓からの比高もきわめて小さく、しかも頂上近くまで車で上がれてしまうため「山」とはいい難い面もあるが、それでもここで、私は本年初めての蝶(シジミチョウの一種)の舞に遭遇でき… 思いがけず春の訪れを強く実感できた次第。






 不覚、二度手間〜南相木・南牧両村境の城山
 海ノ口城址に訪問後、私はどうも腑に落ちない思いと共に家に戻った。というのは、同城の一の郭址に三角点標石を見出せなかったからだ。実は私は訪問前の時点では同城の一の郭址は当然「城山」の三角点頂上にあるものと思い込んでいた。然るに肝心の三角点標石はどこを探してもないし、どうも様子がおかしい。それで、家に戻ってから再度詳細に地形図にあたってみたところ… 何と「城山」の真の頂上は海ノ口城の一の郭址の峰ではなく、そのさらに東約700mほどの峰であることが判り、愕然とした。しまったと思ったが、後の祭り。
 それでも、まあ「城址」としては一の郭まで登ったんだし… と思ってはみたものの、やはりどうにも悔しくてたまらぬ。こうなるとどうもいけない。しばし悶々とした挙句、とどのつまりは翌日(3/12)の未明、ついに再訪を期して自宅を1人で車で飛び出すことと相なった(!)。未明に出た訳は、ひとえに今日の天気予報ゆえ。何でも前線の通過に伴い大陸から寒気が入り込んでくるとかで、遅れれば遅れるほど山行には悪条件になる。実際、登り口に向かう途中、既に愛車のフロントには雨滴が散っていたが、まだ本降りまでには間がありそうだったので、とにかく行ってみることに。
 今日は昨日とはルートを変え「大芝林道」側からアプローチ。落石のため途中から徒歩となったが、村境の峠から稜線に上がると、明るく見通しの利く樹林中の快適な進行に。心配した雨も本降りにならぬうち、無事、露岩のある狭い頂上に立つ。そこからは、男山、御座山、茂来山など、思いのほかの大展望! 自身の不注意が招いた山行とはいえ、結果的にはかくも素晴らしき峰に立ち得て、私はこの上ない充実感を味わった。







 信州新町・上奈良尾付近の飯縄山に訪問
 3/18、この日の天気予報は曇り後雨とのことゆえ、降雨前に最低一つだけでも山に登るべく、可及的速やかに家を出た。今回の第一目標は信州新町の上奈良尾付近にある「飯縄山」。国道19号線の川口橋近辺から犀川左岸側に結構立派な山容を見せる山だ。ただ、この山、地図上では道が明らかでなく、また天候も先述のような状況ゆえ、今日は家族は付近の「さぎり荘」あたりで遊ばせておき、その間に私のみ登ってくることに。
 国道19号線の「日名橋」の手前で右に折れ、「柳久保池」方面への道に入り、心細い車道をたどって「上奈良尾」の集落あたりまでは車で入れたが、やはり登山口めいたところは特に見当たらず。で… 北側の道脇の適当なスペースに駐車し、稜線伝いに登ってみることにする。
 と… 登り始めてすぐ、右側にひらけた眺めは、何と、五龍岳、鹿島槍ケ岳、爺ケ岳など、白銀の後立山連峰の面々! 曇り模様の天候、また位置的にも、展望は当初全く期待していなかったので、これにはまずもって度肝を抜かれた。しかも、道らしい道のない山かと思いきや、しばらく登ると、そのうち明瞭な道形が出てきて驚いた。むろん、今はほとんど通る人もないとみえ、薮がはびこりつつあったが、それでも往時は上奈良尾の人々を中心に生活に密着した山であったのだろう。それが証拠に、そのうち達した頂上には「上奈良尾建立」等の銘のある石祠が2基、ひっそりとたたずんでいた。そして、そのすぐ背後の樹間からは、新町方面の俯瞰から上信国境の山々まで、これまた予想以上の眺め!
 またしても、知られざる良き山をひとつ発見できた。私は、思いのほかの歓喜と共に、しばしその場に憩いの刻を過ごした。







 「山清路」脇の寂峰〜金戸(かなとこ)山
 上奈良尾の飯縄山から下山後、私は昼頃に家族の待つ「さぎり荘」近くに戻った。ちょうど昼食時、名物ジンギスカンの焼肉に心惹かれるものがあったが… いつ降り出すかも判らない空模様の下、今、昼食に入れば折角の山に登れる時間を失うことになりかねない。で… ここは山行を優先し、飲まず食わずのまま、第二目標である生坂村の「金戸(かなとこ)山」を目指す。この面白い名の山は、古くから国道19号線沿いの渓谷美の地として知られる「山清路」の景観の一部をなし、例によって戦国時代の山城址(金戸山城址)であったほか、山中には百体観音が祀られているなど、意外な歴史性と存在感を有する山なのだが… 一般には「山清路」のすぐ脇に、こんな山があるなんて、案外知る人は少ないのではないか。
 登り口は国道19号から八坂方面への道に入って少し行った右にあり、看板があるので注意していれば見落とすことはない。狭いスペースに苦心して駐車し、「薬師堂(山清寺)跡」から登り出す。例によって訪問者が少ない山らしく、やや薮がちな道を、素朴な石仏に頭を垂れつつ高度を上げる。そのうち達した「御嶽神社跡」と「百体観音」の分岐では、まず左の「御嶽神社跡」へ。もっとも石段や礎石が見出された他には、特に何も見当たらず、すぐに城址を目指す。わずか下って往時の郭址らしい平地を突っ切り、登り返して三角点のある頂上へ。最高点は巨大な露岩となっており、露岩に囲まれた平地の中に城址を示す看板と、秋葉様の石灯篭あり。そして、その直下の露岩折り重なる一角には「百体観音」の石仏群… 多くの露岩と石仏に囲まれた一角は、さながら天然の大伽藍のごとく一種荘厳な雰囲気をなし… 私は一人、しばしその中で厳粛な気分を味わった。







 最高点は何と相撲の土俵!〜生坂村・高津屋山
 金戸(かなとこ)山から下山し… 私は同山の適当な写真を撮影したく、国道19号線をしばらく南に向けて走った。そして犀川に架かった「大日向橋」を渡って左岸側に移った時… たまたま案内標識に「高津屋森林公園」と書かれているのを目にした。私はこれまで、そういう名の公園が存在することを知らなかったので、果たしてどんなところか、この機会にちょっと確かめてみようと思い立ち、標識に従って車を同公園に向けて走らせた。
 そして、これが実に、はからずもこの日3つ目の山への訪問の契機となろうとは…! 当初の予想では、ごく平凡な森林公園の類だと思っていたのに、いざ現地に行ってみたら、案外「山」らしい場所。で… とどのつまりは立派な休憩舎があるへんから、ついつい登り始めてしまった次第。
 良く整備された散策路をほんの 5〜10分程度も登ると、聖山や長野市の飯縄山などが望める明るく開けた山稜上に出る。すぐ先に東屋らしきものが見えるので、そちらに歩を進めると、何やら円形の土盛の周囲に木柵が巡らしてある一角あり。脇に看板があるので見ると「高津屋神社の土俵跡」とあって、何でも明治40年代までここには秋葉様の社があり、祭礼時には相撲が盛んに行われていたとのこと。また、先に東屋のように見えたのは、何と新しく造られた土俵で、しかも、ちょうどその土俵のあたりが最高点(!)。私もこれまで多くの山に訪れてきたが、頂上が土俵という山は今回が初めて。さらにまた、ここは戦国時代の山城址(高津屋城址)でもあるという。かくも歴史性豊かな山を発見できたとは! それも全く偶然に。
 ちょうどその頃、それまで何とか保っていた空から、最初の一滴が頬に当たった。それを機に、私は充実感と共に駐車場所へと戻った。






 旧三水村の城山(若宮城址)に訪問
 3/21の午前中、旧三水村(現飯綱町)にある戦国時代の山城址「若宮城址」に訪問。ここは私には、以前すぐ近くの鼻見城山に訪れた際から、ずっと気になっていたところであるが、案外これまで訪問の機会がなかった。なお、ここは地形図上、山名の表記はないが、登り口付近でたまたま出会った地元の人に聞くと、他の多くの例と同様、普通に「城山」といっているとのこと。
 国道18号線筋から旧三水村に入り、北上して若宮集落へ。城址への入口には看板があり、すぐに判明。看板脇の狭いスペースに注意して駐車し、遊歩道入口に歩いていってみると、何と深い残雪が盛り上がって前途を遮っている。さて、どうしたものかと左手に回ったら、たまたまそこの民家の方が洗車をしていたので、事情を話して庭先を通していただくことにし、親切な道の説明まで受けて、早速登り出す。
 しばらく登るとすぐ、明らかに郭の遺構である小広い平地を通過。明瞭な堀切の痕跡を左に見つつ、上の郭へ。さらに短いが結構急な切岸を乗り越えると、もう一つ郭を経て目指す本郭への最後の階段道に。階段道を登り切ると頂上の本郭址。小祠と「湊川神社遥拝所」の碑(注:なぜ「湊川」なのかと思ったが、後で調べたら、この城の城主の芋川氏の娘が楠正成の子孫の許に嫁いだとの伝承に関係があるらしい)、それに「芋川古城之碑」なる碑のある静寂な場所。本郭周囲の切岸は天然か人工かは不明だが、結構急峻で見応えあり。また樹林に囲まれてはいるが、樹間から斑尾山方面などがよく望まれる良き頂上。折しも雪融けの季節、山中にわずかに見られたフクジュソウの花が、ようやく訪れつつある春を思わせた。







 寄道〜矢筒山に訪問
 若宮城址の城山に訪問後、私は何とはなしに旧牟礼村の方向へと車を走らせた。それは、単に国道18号線伝いに長野に帰るのもつまらないし、どこか別ルートで行こうと考えただけの話であったのだが… たまたま目についた路傍の標識に「矢筒城跡」という文字が目に入り… 最近の城址探訪趣味もあって、折角だから偵察して行こうと思うがままに、標識に従い車を走らせた。
 じき「飯綱病院」近くの登り口に到着したが、前途に見える城址は小高い丘で、さして時間も要さずに行って来れそうだ。そこで付近に車を駐め、デジカメだけを持って歩いてみることに。と… すぐに明瞭な郭の形状が現れ、その縁には石積の遺構もみられる。さらに郭が段状をなしている斜面を左に見つつ歩道を進むと、ほんの10〜15分ほどで結構広い本郭址に到着。そこは「平和観音」や「忠魂碑」などがある厳粛な雰囲気の場所で、周囲には円状に明瞭な郭の痕跡あり。また「平和観音」のあるへんが一段高い土盛りになっているのは、往時の物見櫓の址だろうか。
 こんな調子で、周辺をあれこれ詮索していると、ふと、何やら赤みを帯びた物体が急速に視界をよぎった。何だ!? と見ると、そこに越冬ヒオドシチョウ2羽による壮絶なドッグファイトが展開… 先の若宮城址で目にしたフクジュソウの花と同様、彼らもまた春の訪れを告げる可憐な使者たちだ。私は、ごく短時間、全く偶然に訪れた里山ながら、案外フレッシュな印象を胸中に刻みつけた後に、元来た道を駐車場所まで戻った。






 所用の合間に〜信州新町・五百山など
 3/21午後、私は家族と共に、彼岸の墓参り等のために、女房の郷里である信州新町へ向かった。ところが… 到着後しばらくしても、他の参集予定の親戚がまだ到着しておらず、しかも、連絡結果、まだ今少々は到着まで時間を要するという。ならば、それまでの時間をただ無為に過ごしてしまうのも惜しい。で… その間に近所にある、信州新町のすぐ裏山にあたる変わった山名の山「五百山」あたりに訪れてみようと思い立つ。
 思い立つやいなや、私は直ちに女房の実家から一人車で発、地形図に従い車を走らせた。「穂刈橋」のたもとで国道19号線と分れて細い車道を上がり、突き当たった山稜上の道を右(東)へ進む。が… 地形図上「五百山」と思しきあたりまで行っても、例によって何の標識もないので、とりあえず最も東側の峰から適当に見当をつけて登ってみることにする。なお、この山、地形図上では東西500〜600mに及ぶ山稜上にいくつかピークを持ち、三角点は東端の峰(659m)にあるが、最高点は西端の峰(670m)であるので、結局は両峰間を通しで登ってみることに。まずは東端の三角点峰と思しき峰の直下から、やや薮がちな道をたどって峰上へ。と、予想通りそこに三角点標石を見出し一安心。それから稜線上を西にたどると、特に目につくものもないまま車道に下りて終わったので、ここで一旦車を取りに戻り、次いで西の最高点の峰に登頂。と、そこには石祠が2つ祀られており、先刻の三角点峰よりずっと里山の頂上らしい場所。樹林に囲まれ闊達な展望は望めないが、一般にはこちらを五百山の頂上とみなしてよいだろう。
 なお、この山稜上には、五百山の他にも、中世の山城址という「中山城址」とか、また「豊受神社」のある峰など、ちょっと気になる峰々が点在している。私は五百山への訪問後、ついついそれらにも寄道していたが… そのうち携帯電話に「いつになったら帰ってくるの?」とカンカンになった女房からの電話が着信(!)。いけない、忘れていた。私は慌てふためいて下界に舞い戻り、親戚に平身低頭の後、墓参等の用足しに出掛けた。







 佐久市志賀の三峰山(志賀城址)に訪問
 4/1、家族同伴で佐久市志賀にある戦国時代の山城址「志賀城址」に向かう。このところ長野市近辺は冬に逆戻りしたかのように雪が舞ったり天候不順ゆえ、それを避ける意味もこめ、これまでも何度か実施してきた「陽だまり里山散策」の企画のつもりであった。
 ところが… 山麓の「雲興寺」付近まで行っても、なぜか城址を示す標識もない。この城址、歴史上は甲斐の武田信玄の侵略に城主笠原清繁以下が敢然立ち向い奮戦の末、衆寡敵せず落城したとの壮絶な実戦歴を有する城址なのだが… とにかく「雲興寺」の右手の細い車道を上がった先に続く小道を登り口と見当をつけ、早速家族を伴い登り始めたが… そのうち厚く落葉の堆積する滑り易い急斜面の登行となり、挙句は断崖絶壁に前途を遮られ、子供同伴ではこれ以上は無理と判断、無念「第一次攻城」に失敗。やむなく「雲興寺」まで戻ると、住職さんがおられたので城址への道を尋ねてみると、寺のすぐ脇を上がっている階段道を指差された(注:実は最初、墓地への道かと思い見逃した道!)。また、この際ついでに城址の山名も尋ねてみると、住職さんは「三峰山(みつみねやま)」と明瞭に答えられ「頂上に三峰様の祠があるんですよ」とのこと。以上の情報を頼りに、早速「第二次攻城」に。ただ、家族は先刻の失敗に懲りたか、皆一様にもう嫌だと言ったので、どこかでお茶でも飲んでいてもらうことにし、私のみの訪問…
 皮肉にも、今回は順調に登行、断崖絶壁は左から巻き、難なく稜線上へ。そのあたりから明瞭な郭や石積の遺構が次々と現れ、やがて住職さんの言葉通り、三峰様の石祠が祀られている頂上本郭址に到着。往時の名残の矢竹が生い茂り、樹林に囲まれた静寂な雰囲気の場所だった。







 雨の合間に〜信州新町水内の飯綱山
 4/8、この日は土曜日で折角の休日だったが、朝から生憎の雨。これでは今日は山はダメだなと思っていたところ… 昼頃になったら雲間から陽光が射し、雨も一旦収まったので、しめた、また降り出さないうちに、せめてどこか小さい所でもと、にわかに信州新町水内の「飯綱山」を思いつき、家族と共に家を飛び出す。この山、長野市から国道19号線を南下していき、信州新町に入るとすぐ左手にある「道の駅」の南西ほんの1kmほどの所に位置する山で、標高的には平凡だが、去る3/18に同じ信州新町の上奈良尾の「飯縄山」に訪れた際、文献調査中に偶然その存在を知り、以来ずっと気になっていたもの。地形図上で見る限り、頂上直下まで車道も延びているし、私にとっては、今日のような場合にうってつけの山。
 途中、食事を摂ったりしながら車を走らせ、「道の駅」の前から花倉集落方面に上がる車道に入り、さらに途中で右に分かれて、地形図通りに頂上直下まで。ところが、ここでまた小雨がぱらつき出したので、家族は車に待たせておき、私のみ大急ぎで頂上を往復することに。例によって登山道らしいものは見当たらないが、適当に登り易そうな所を選んで進むと、ほどなく頂上らしい地点に到着。と… そこは樹林に囲まれているだけで、何の標識もなく展望もなく、その代わり意外にも、すぐ下に、かつて畑だったらしい痕跡や、また当時の作業道らしい道形が見出されて驚いた。このあたり、いかにも人里近い里山らしい。三角点標石は多少発見に手間取ったが、最高点とおぼしき地点より少々低い薮の中にじき見出された。
 車に戻ると、ほどなく大粒の雨が車のフロントガラスを叩き始めた。私は、やれやれ、幸運だったわいと思いつつ、帰途についた。