山行記録帳(2006)@
〜Yamazaki's Photo Diary 2006,@〜


 【山行リスト】
 2006年初登り〜長野市・赤塚山(寺尾城址)  歴史性豊かな山域〜千曲市・城山(鷲尾城址)
 上田市・安曽岡山と高ボッチ訪問  陽だまり里山散策〜丸子町・大羽毛山(丸子城址)
 驚愕の一刻〜霞城山と大室離山  青木・筑北両村境の名峰〜大沢山
 予想以上に大規模な山城址〜小坂山  陽だまり里山散策第2弾〜佐久市・城山(内山城址)
 狐も転げた?〜坂城町・前山(狐落城址)  往時を物語る明瞭な遺構〜城山(塩崎城址)
 里山の魅力満点!〜茅野市・小泉山  八ヶ岳連峰絶好の展望台〜朝倉山(朝倉城址)
 名門諏訪氏最後の拠点〜桑原山(桑原城址)  攻めるも守るも命がけ!?〜大城山(日岐大城址)
 見所満載の魅力の岩稜〜岩州公園(高松薬師城址ほか)  広島県呉市〜未明の休山


 2006年初登り〜長野市・赤塚山(寺尾城址)
 2006年元旦、私にとっての新年初登りとして、長野市内にある赤塚山(寺尾城址)に訪問。今年も昨年に引き続き知られざる山を発掘してみようとの期待の意味をこめ、思い切りマイナーな山を選定してみたのだが… いざ訪れてみたら、まず中腹の愛宕社で迫力ある天狗の面の出迎えを受け、いきなり度肝を抜かれた。今年もまた、こんなふうに山において思いがけない出会いの数々がありそうだとの感を強くした次第。
 愛宕社から先は、道が今ひとつ明瞭でなかったが、それでも季節柄、積雪を踏みしめつつ適当に歩き易い所を選んで高度を上げていけばよいだけなので気は楽。じきに明瞭な郭や切岸を経て「寺尾殿之墓」と記された墓碑のある静かな本郭址に到着。天候はきわめて良好、樹間に飯縄山や戸隠連峰などが望まれる、低山ながら好感の持てる山。例年なら元日は冠着山に登ってきたところ、今年はあえて変えてみて良かったと思った。
 地味で穏やかな山ながら、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)によれば、かつて天文19年、有名な武田の「戸石崩れ」(武田信玄が村上義清の戸石城攻略に失敗し、甚大な損害を被った戦)の際、武田方についた城主・寺尾重頼を村上勢が攻撃し、武田方の真田幸隆が救援に出陣したとある。ここもまた実戦場であった… 私は、一人本郭址の頂上にあって、そんな往時の歴史から想像される合戦当時の情景と、今、目の前に拡がる静かで長閑な情景とを無意識のうちに対比しつつ、何か複雑な気持ちを禁じ得なかった。






 歴史性豊かな山域〜千曲市・城山(鷲尾城址)
 2006年元旦、先の長野市の赤塚山(寺尾城址)への訪問が存外早く終わり、まだ時間もあったので、にわかに千曲市の倉科石杭の城山(鷲尾城址)への訪問を思いつく。この山に関しては、実は私は昨年、長野市の鞍骨山(鞍骨城址)に訪れた際に大規模な石垣遺構を目にして感心していたところ、たまたま現地で会った人から、近くの鷲尾城址や霞城址にも立派な石垣があるという話を聞かされ、以来、機会があれば是非訪れてみたいと思っていた所。時間的にも適当そうなので、早速、登り口付近に車を走らせた。ところが… 現地に到着してみると適当な駐車場所がない。はて、どうしたものかと付近をうろうろ走り回った末、すぐ南に通じている大通り沿いに僅かなスペースを見出して駐車、ようやっと登行を開始。
 海津城初代城主・真田信之候の次女泰子姫が建立したという登り口付近の大日堂に頭を垂れ、その裏手に続く道を一歩一歩登っていくと、そのうち事前情報通り、とても山城址のそれとは思えないほど豪壮な石垣が前途に出現。それは昨年見た鞍骨城址のもの以上に美しく顕著で、事前の情景予想をはるかに上回る程のものあり。しばし嘆声を発しつつ、本郭址の周囲の石垣の様相を見て回る。
 しばらくして、私は地図上三角点のある東のピークに向かった。そこには県史跡の「倉科将軍塚古墳」という前方後円墳があるが、三角点は何と同古墳の後円部の上(!)。そこからは当然のごとく展望も良く、次第に暮れゆく西空の下、北アルプスの後立山連峰あたりが美しく見渡せた。なお、試みにさらに東に山稜をたどり、「No.2」送電線鉄塔付近のピークまで達した所で、元日に相応しく豊かな歴史性を体感できた本日の登山終了。







 上田市・安曽岡山と高ボッチ訪問
 1/8、いよいよ2006年の山の本格的始動の目的地に、上田市の安曽岡山と高ボッチという2峰を選定。これらの山々は、一般には塩田平の名峰・独鈷山の支峰としかみなされていない感が強いが、しかし種々調べてみると、昨年の暮れに訪れた弘法山がそうであったように、これらの山々も相応に個性的で立派な独立峰的風格を有する峰々らしいゆえ、されば、思いついたこの機会に… とて、勇躍私一人で家を飛び出す。
 登山口は有料道路「平井寺トンネル」の手前を右に入ったへん。雪で進み難い林道を入れる所まで車で入り、以後は徒歩で谷沿いの道を進む。国土地理院の地形図上は、そのまま谷沿いに安曽岡山と高ボッチとの間の鞍部に点線道が達しており、そこを基点に両峰を往復するだけだと軽く考えていたが、案に相違して道は登るにつれ不明瞭となり、上部ではおびただしい獣の足跡が入り乱れる雪面上に適当に見当をつけての登行に。ともあれ首尾よく登りつめた鞍部は、多少開けているかと思えば標識一つなし。案外人気のない山域なのかと些か意外な感を抱きつつ、まずは右へ、最後の急登を乗り越え安曽岡山に登頂。樹林の中の静寂な頂だが、ここで東塩田小学校PTAによる「安曽岡山登山道」の標識を見出し、多少ほっとする。
 樹間に独鈷山などを望みつつ、一旦鞍部に引き返し、次いで高ボッチに。どこか優し気な山名ながら、地形図上は安曽岡山より20mほど高い。また実際に登りに取り付いてみると、先の安曽岡山より傾斜が急で、しかも例によって厚い落葉の上に新雪が積もっていて、アイゼンの利きも今ひとつ、結構なアルバイトを余儀なくされたが、それでも何とか乗り越えて狭いピークの頂上に立つ。今日の最終目的を果たした安堵感と共に、すぐ先の露岩上から樹間に目をやると、そこには蓼科山の優美な姿が… 目を転ずると、間近に富士嶽山が自分より低高度に望まれたのが珍しかった。







 陽だまり里山散策〜丸子町・大羽毛山(丸子城址)
 1/9、家族全員で丸子町の大羽毛山(丸子城址)に訪問。昨日が私一人での山行だったので、本来なら今日は家族サービス専念のところ、あまり天気が良いので、久々に家族全員での軽い里山歩きを画策。上田近辺なら積雪量も少ないし、陽だまりなら結構暖かろうと期待して長野発。
 丸子公園の駐車場に車を駐め、「安良居神社」前からノンビリ登り出す。予想通り雪はきわめて少なく、日陰が寒い点を除けば歩行は快適。東屋も適当に配置されていて、いかにも付近住民の憩いの森といった感じ。二の郭手前の東屋が日当りが良かったので、少々早いがそこで昼食に。最近あまり使わないポケットガスコンロやコッフェルを持ち出し、お湯を沸かしてインスタントラーメンやスープ、ココアなどをしばし楽しむ。
 昼食後、二の郭へ。そこには物見櫓を模した木製の展望台があり、上がってみると、眼下の丸子町はもとより、その背景の烏帽子岳、浅間山、四阿山等の眺めが素晴らしい。そこから頂上本郭址まではほんの数百mほどですぐ到着。土塁や段郭、溜井戸の遺構や矢竹の生育がみられる典型的な山城址といった雰囲気の場所。ちなみにこの城は天正13年、真田昌幸配下の丸子三左衛門を守将に、徳川家康の大軍と激戦を交えた実戦場として有名だが、今はそんな歴史など、まるで嘘であったかのように長閑な情景を見せている。須坂市に臥龍山、千曲市に一重山があるごとく、丸子町には大羽毛山あり。身近にこのような憩いの里山がある地域の人々は幸せだと思う。が… それにしては我々家族がこの山中を歩き回っている間、他に一人の人にも出会わなかった。いかに陽だまりの里山とはいえ、こんな季節に子連れで山に訪れるなど、一般にはやはり変り者の類なのか?







 驚愕の一刻〜霞城山と大室離山
 1/21、長野市内の、有名な大室古墳群の近くにある戦国時代の山城址(霞城址)の山・霞城山に訪問。この日は昼前から野暮用があって、それまでに帰らなければならなかったので、近在で登りの所要時間が短く、かつ充実度の高そうな山に… というわけで、元旦の鷲尾城址訪問の項にも記した通り、鷲尾城址や鞍骨城址と同様、頂上部に大規模な石垣の遺構を有するという、この山を目的地に選定してみた次第。
 朝食後慌しく自宅発、早速大室集落あたりに車を走らせる。が… 例によって付近に適当な駐車場所がない。右往左往の末、やや離れた「大室神社」前に駐車。そこから歩いて大室公民館前を通り、やや東で右の小道に入ると、すぐ先の民家で地元の人々が茶飲み話をしていたので道を尋ねると、登り口はすぐだという旨、また登り口の右脇にある小寺は城主の菩提寺だという旨が判明。「その昔、景虎(上杉謙信)が来て焼いてったというだに、登ってもそれらしいもんは何もないんですがね」とのことだった(城の建物が残ってないという意らしい)が、とにかく登ってみることに。
 しばし冬枯れの雑木林を、途中の崖下に祀られた石祠に頭を垂れたりしつつ登ると、ほんの10〜15分ほどの短時間で尾根上に。それから左(東)に進むと… じきに例の石垣が出現。一見して、私は度肝を抜かれた。凄い! これまで鞍骨や鷲尾のそれを見てきて、ある程度事前予想はしていたが、鞍骨や鷲尾のは地形をそのまま利用した、比較的野性的な石積みだったのに対し、ここのは美しく直線的に整形されており、まるで近代戦の山岳要塞を見るがごとし。しかもこの尾根筋自体、天然の急崖をなし、攻城には相当の犠牲を覚悟せねばならなかったろうと想像され興味深かった。
 なお、下山後、ついでに大室神社の背後の「離山」にも訪問。5分ほどで登れる小丘だが展望良好、先刻の霞城址あたりがよく望まれた。







 青木・筑北両村境の名峰〜大沢山
 1/22、国道143号線の青木峠の北に位置する知られざる名峰、大沢山に訪問。この山、山麓から見えにくいせいか通常あまり話題にもならず、私も実はつい最近まで、この山の存在自体を認識していなかったのだが… よくよく地図を見てみると、この山、標高は1,439.8mと付近の名峰で尾根続きの四阿屋山より高い上、青木・筑北両村境上にあることから、東信、中信双方の主要な山々が望める、絶好の位置関係にあるのだ! となると、たとえ冬でも是非行ってみたいもの。朝起きたら天気も良かったので、思い立ったこの機会にと、今回は私単独で勇躍自宅を発。
 登り口は青木峠。地形図に従い「明通トンネル」の筑北村側入口のすぐ手前から北に延びる「四阿屋林道」をたどる。「丸山」を西側から巻き終わったすぐ先で、右に分れる道を少々進むと「空峠」。ここで大沢山頂上から南南東に派生する尾根筋に取り付き直登。上部では結構急登もあったが、南向きのルートゆえ全般的に積雪は少なく、アイゼンを着用する場面も全くないまま無事登頂。頂上は樹木に囲まれ展望は今ひとつ、御嶽山の石碑が西向きに建てられているほか三角点があるだけの地味な場所だったが、そのすぐ手前の頂上直下の稜線上からは、樹間に四阿山、根子岳、浅間山、蓼科山、八ヶ岳連峰、鉢盛山… と、期待通りの素晴らしい展望! ただ残念だったのは、登行途中まで見えていた北アルプス連峰が急速に雲に覆われ、頂上付近ではまるで見えなくなってしまっていたこと。ばかりか… その雲は寒風と共に当方にも流れてきて、挙句は小雪まで舞い始めて寒さがきつく震え上がる有様となったので、それを機に早々に下山。車まで戻った頃には、汗拭きタオルが凍って棒のようになっていた。







 予想以上に大規模な山城址〜小坂山
 1/28、長野市・千曲市境にある戦国時代の山城址(小坂城址)の山、小坂山に訪問。この日は、午前中に野暮用があったため、午後のみの山歩きだったが、地味なようでいて案外、歴史的な魅力あふれる山域で、夕刻までの間、充実感あふれる山歩きの一時を思う存分味わうことができた。
 登り口は稲荷山団地に近い尾根の末端付近。そこに結構新しい案内看板が設置されていて驚く。一般にはほとんど知られぬ山域ながら、地元の人々には馴染みの深い山域のようだ。またその看板を見ると、これから私が歩こうとしている道は、案外多くの見所を経て歩ける好ルートであると判明。そもそも遊歩道の始まりの道からして「旧北国西街道」(!)。歴史にも少々興味のある私、早速、期待に胸をふくらませつつ歩き出す。
 まずは見事な「お狐様」の石像のある「飯縄稲荷神社」に参拝し、「御嶽山の石碑」を往復。信越線の「城山トンネル」脇から高度を上げ、「赤沢城址」に立ち寄ったりしつつ進むと、やがて長野市指定文化財の古墳「越将軍塚」前に達する。結構大きい円墳で、この近辺に点在する森将軍塚などの古墳との関わりが連想され興味深い。道はさらに雪の樹林の中に延びてゆき、篠山方面への道から左に分かれて、小坂山直下の「桂馬平」へ。明らかに人為的に工作された小広い平地で、脇に「二ツ石」があるが、残念ながら謂れは不詳。そこから「小坂山」の頂上まではほんの一投足。
 石祠が2基ある小坂山頂上は、既に「小坂城址」の郭の一角をなす。本郭址へは、ここからやや尾根筋を南に下るが、途中、いくつもの深い堀割を突っ切らねばならず、予想をはるかに超える城の規模に驚く。やがて達した本郭址からは、眼下に長野自動車道あたりがよく見下ろせた。







 陽だまり里山散策第2弾〜佐久市・城山(内山城址)
 1/29、家族全員で佐久市の城山(内山城址)に訪問。朝起きたら、あまりにも天気が良かったことから、家族サービスも兼ね、去る1/9の丸子城址に次いで本年2度目の「陽だまり里山散策」の企画。むろん、特にこの季節は家の中に籠りがちな我が子たちに適度な運動をさせる意味もこめて。
 実はこの山、私にとっては、以前から国道254号線に車を走らせる度、「内山峡」にさしかかる手前の左手に、いつも目につく気になる山だった。昨年も荒船山や熊倉峰に訪れる際に横目に見ては、近いうちに必ず登りに来ようと思いつつ… なかなかその機会を得られないでいた。
 それだけに、今回の山に関しては、私も既に相当の事前情報を手にしていた。地形図を見ると「内山城跡」と表示があるが、この城は南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)等によれば、甲斐の武田信玄の信州侵攻に伴い、幾度かの実戦を経験しており、殊に最初の攻防においては、守将の大井貞清以下城兵の勇戦敢闘により、最終的に降伏したとはいえ、あの武田の猛攻に10日余りも持ちこたえたと伝えられる。本郭付近の急峻な崖など地形を存分に活かした、守るに易く攻めるに難い、まさに天険の要害であり、信州の名城のひとつに列せられる資格十分と思われる。
 長野県も佐久あたりは気候的に西上州に近くて雪も少なく、登り口の園城寺で車を降りると、案外温暖な空気が頬をなでた。風も全くなく、登りでは暑ささえ感じたほど。山城址らしく矢竹の密生する斜面を抜け、郭や石塁を見つつ登ってゆくと、本郭付近でいきなり浅間山方面の展望がひらけて快哉。ほどなく到着した頂上の本郭址は文字通りの「陽だまり」。まるで初春のような雰囲気の中、私は家族と共にしばし憩いの刻を過ごした。







 狐も転げた?〜坂城町・前山(狐落城址)
 2/5、坂城町の千曲川左岸にある、戦国時代の山城址「狐落城址」に訪問。この山、以前から上信越道の「千曲川さかきPA」あたりを通過する際、結構立派な山容を見せてくれるので、ずっと気になっていたものであるが… それほどの山にもかかわらず、地図や文献上はなぜか山名が明らかでない。それで、おおかた例によって単に「城山」とでも呼ばれているものと思っていたが、試みに登り口付近で出会った地元の人に尋ねてみると、
 「さぁ… どうなんでしょうねぇ、ここらじゃ普通、前山って言っていますがね…」
 との答え。いささか意外だったが、地元の人がそう言うのだから間違いはなかろう。登り口は「村上大国魂神社」「十六夜(いざよい)観月殿」への参道も兼ねており、前者はかつて戦国の世に甲斐の武田と対峙した信州の英傑・村上氏の氏神、また後者は、その村上氏の祖先にあたる源顕清が配流先での心の慰めに月を愛でた場所という。そして、これから登る狐落城址は、千曲川を隔てた対岸の葛尾城と共に、村上勢が拠った堅城で、ここが陥ちたことが、村上義清を越後の上杉謙信の元に走らせる転機になったという。思わず「国敗れて山河あり…」など漢詩の一節が思い出される。
 文字通り狐が転げ落ちそうな急傾斜を、途中から軽アイゼンを着用して突破、石積の遺構らしきものもみられる明瞭な郭址に飛び出ると、そこに城址の案内看板あり。そこから南の上田市方面の眺めは素晴らしく、一瞬、ここが本郭址かとも思ったが、まだ先に一段高い峰があり、道はなお幾つかの堀割を経ながら続いている。さらに急登を乗り越え、頂上直下でまた複数の堀割を突っ切り、ようやく三角点標石のある頂上に達す。
 登頂して、やはりこちらが本郭だと思った(注:後で判明したところでは、こちらは「三水城址」といい、狐落城址の詰めの城であったとのこと)。樹林越しながら良好な展望、優れた高度感! さすがは村上氏の堅城と、私は改めて実感した。







 往時を物語る明瞭な遺構〜城山(塩崎城址)
 2/5、先の狐落城址への訪問後、まだ時間があったので、折角だからともう一つ、戦国時代の山城址の山に訪問。「塩崎城」又は「白助(しらすけ)城」と呼ばれる城山がそれだが、実は去る1/28に、小坂山訪問の途中で赤沢城址に訪れた後、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)等で調べたところ、応永7年の大塔合戦時、大文字一揆の攻勢に信濃守護の小笠原長秀が「塩崎城」に逃げ込み、あわや落城というところで和議が成立したが、この「塩崎城」は、先の赤沢城か、又は長野市篠ノ井塩崎の白助城のいずれかであろうといわれているとあり… たまたま私はそれを知ってから、是非もう一つの白助城の方にも訪れてみたいと思っていたところだったので、今日がちょうどその良い機会となった。
 で… 早速、登り口の「長谷観音」に車を走らせ、登り出す。長谷観音は信濃十八番礼所という名刹だが、この日は折悪しく観音堂が改修工事で仮設シートの中(!)。長谷観音から頂上の本郭址までは、ほんの30分ほどしか要しないが… まず最初の見物は本郭の東端にみられる物見郭。特に何の標識もない人跡稀な山城址で、いきなりかくも明瞭な遺構を目にして一驚。しかもこの物見郭から、二の郭〜三の郭にかけての北の縁の部分に、これまた明瞭な石塁が延びているのが第二の見物。さらに三の郭に下りて二の郭の方を振り返ると、第三の見物〜二の郭との境界面に、かなり規模の大きい石垣あり。私は従来、山城址で石垣がある所はごく稀だと思っていたが、このところ鞍骨城、鷲尾城、霞城と、比較的大規模な石垣を有する山城址を続けて目の当たりにし、今日もまた… どうも私のそれまでの認識は改めねばならぬとの感を強くした、今回の城山探訪であった。







 里山の魅力満点!〜茅野市・小泉山
 2/11、この日は、長男が風邪気味だったりしたこともあり、家族は伴わず私一人で諏訪地方の山城址の山でも探訪してみようと思い、家を出た。中央道諏訪ICで高速を下り、まずは茅野市方面に車を走らせたが、途中で道を間違え、平地の中にぽこっと盛り上がっている小山の前を偶然通過。と… その山の脇に案内看板が立ててあるのが車窓越しに視界をよぎったので、Uターンして駐車スペースに入り確かめてみると「小泉山体験の森案内板 ここが栗沢口入口 茅野市」とあり、概略地図が付してある。小泉山といえば、私もこれまでその存在を知ってはいたが、自宅から遠いことなどから、これまで案外訪れる機会がなかったもの。されば今回この機会にと、当初の予定を変更してその場に駐車、早速登ってみることに。
 登り始めてすぐ、諏訪氏一族の栗沢七郎の守り本尊の観音様を祀る「観音平」を通過。合目を示す標柱を目安にしつつ上がっていくと、4合目の手前あたりから少々急登になるが、5合目で一段落。そこで標識に導かれて脇道に入ると、「権現岩」なる巨大な露岩があり、岩上に権現様と秋葉様の石祠あり。5合目の「天地境稲荷大明神」の石祠を過ぎ、さらに歩を進めると、「金剛界大日」碑、「南無妙法蓮華経」碑、「御嶽講」石祠と、地域の人々の信仰の証が次々と目につき、やがて「富士浅間神社」の石祠のピークに達する。これはその名の通り、富士山ゆかりの社で、富士山の頂上噴火口に似せて掘った穴の底に安置されているのが面白い。そこから頂上まではすぐ。頂上からは樹間に八ヶ岳連峰や霧ケ峰などの展望良好。
 偶然登ったにしては、存外見所が多く、里山の魅力満点の雰囲気! 私は比較的短時間の割には結構な充実感と共に、山を下りた。







 八ヶ岳連峰絶好の展望台〜朝倉山(朝倉城址)
 先の小泉山への訪問後、今日の本来の当初目的地であった、朝倉山に訪問。例によって戦国時代の山城(朝倉城、塩沢城とも)の址のある山で、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)等によれば、かつて甲斐の武田氏に属した塩沢氏の居城で、地理的に小県及び佐久に対する重要な関門だったというが、特に実戦は経験していないらしく、主に狼煙台として用いられていたものらしい。現地に車を走らせてみると、その歴史にちなんで「信玄公ゆかりの地 朝倉山城跡(塩沢城)」との案内板が立てられている。
 東麓の登り口付近の道脇の狭いスペースに注意して駐車し、獣害除けのためらしい防護柵を紐を解いて押し開け、登り出す。すぐに両側の植林の中に段々の地形がみられたので、一瞬段郭かとも思ったが、周辺の状況から、これはどうも違うらしい。ともあれ、やや薄暗い植林地を抜けると、後は比較的明るい広葉樹林の中を落葉を踏みしめながら行く気分の良い道。やがて稜線上に飛び出て左へしばらく歩くと、じきに明瞭な空堀の遺構が出て、頂上の本郭址はそのすぐ上にあった。円形の土塁を巡らした、いかにも狼煙台らしい本郭で、片隅に石祠が1基祀られている。
 本郭の南には、二の郭、三の郭、不動郭と続き、付近には石祠や石仏が散在していたが、それよりさらに印象的だったのは、ベンチの置かれた東郭からの展望。眼前に拡がるのは、何と北は蓼科山から、南は西岳あたりに至るまで、かの雄大な八ヶ岳連峰の大パノラマ! 若干雲がかかったとはいえ、知る人ぞ知る八ヶ岳連峰の絶好の展望台を今回思いがけず発見でき、これだけでも遠路はるばる出てきた甲斐は十分あった。







 名門諏訪氏最後の拠点〜桑原山(桑原城址)
 小泉山、朝倉山と相次いで訪れ、普通ならこれでノンビリ家路につきたいところだったが… 生憎、今日は家族を伴わず私一人。特に制約もなく、自分の思い通りに動ける貴重な機会。高い高速料金を払って来ていることもあり… 最大限の成果をおさめて帰らねばならない。
 で… ついに本日3箇所目の目的地として、桑原城址(注:後で山名を地元の人に尋ねたら「桑原山」とのこと)への訪問を決意。ここはかつて戦国の世において、信州の名門のひとつとして知られた諏訪氏が、長年の政略奏功せず甲斐の武田信玄の侵攻を受け、南東の上原城を捨てた後、最後に拠った山城として有名。もっとも、その武田の侵攻時、凋落著しい諏訪頼重に付き従った家臣はきわめて少なかったらしく、結果的にはさして戦わぬまま落城せざるを得なかったという。そして敗将諏訪頼重は甲斐に送られた末に自害に追い込まれ、ここに名門諏訪家は滅亡するに至った。登り口の「普門寺口」に車を走らせると、そこには諏訪頼重の娘で、諏訪家再興を願い武田信玄の側室となった「湖衣姫」(注:新田次郎が小説中で考え出した名。ちなみに井上靖の『風林火山』では「由布姫」)のいわれを記した説明看板があるが… 今にして思うと、その姫が生んだ子・武田勝頼の非業の運命は、姫の諏訪家再興の願いよりも、武田に対する諏訪氏はじめ多くの信州豪族たちの怨念の方が優った結果としか思えない。
 そんな事前知識を思いつつ、私は厳粛な気分と共に城址に立った。山城址らしく矢竹が周囲にはびこる本郭址には土塁の痕跡がみられ、さらに空堀を隔てた二の郭からは眼下に諏訪湖が一望の下。その、どこか憂愁の翳を映しているかのような湖面に、私はしばし目を奪われた。







 攻めるも守るも命がけ!?〜大城山(日岐大城址)
 2/12、生坂村にある岩峰・大城(おおじょう)山に訪問。前日の11日に引き続き、私一人での山となったが、11日の山は比較的優しい山揃いで、数は登ったものの少々食い足りなかったこともあり、今日は少々レベルの高い山域を選択してみた次第。生坂村近辺には、岩殿山、京ケ倉など、俗に「骸骨山地」などと言われるほど痩せた急峻な岩稜の山々が連なっており、今回訪れた大城山は、京ケ倉のすぐ北に連なる、戦国時代の山城址(日岐大城址)の山。実は私は京ケ倉の方には以前既に訪れたことがあったが、当時はまだ山城址の山にさほど心惹かれていなかったこともあり、京ケ倉より若干低い大城山の方は割愛して下りてしまった経過があるので、内心、あの時足を延ばしておけばよかったなどと思いながらの訪問。
 ただ、一見あまりに急峻な山容ゆえ、本当に登れるのかと不安にもなるが、いざ登り始めてみると、昔からの道を外さぬ限り、外見から想像されるほどには危険でもない。実際、今回登った下生坂区から大城への道も、現地の案内看板によれば、主稜線上の「はぎの尾峠」越えの道は、昭和40年まで入山の生徒が生坂の学校への通学路に用いた道であったというほど。もっとも、それも「はぎの尾峠」から、かつて大城の番兵が見張りをしたという「物見岩」を過ぎるへんから、次第に両側に切れ落ちる急峻な岩壁の有様が目につき始め、がぜん緊張感が高まっていった。しかも冬季だけに積雪の表面が寒風に磨かれてクラストしている箇所も出てきて、目指す大城直下のロープのある岩稜の急登では、ついにアイゼンの世話にもなる羽目に… 私は、いかに文字通り天険の要害といえど、これじゃ守る方も命がけだったろうなどと思いつつ、ようやく本郭址の頂上に立った。







 見所満載の魅力の岩稜〜岩州公園(高松薬師城址ほか)
 先の大城山への訪問後、まだ余剰時間があったので、以前から気になりながら、なかなか訪問の機会がなかった「岩州公園」の岩稜を歩いてみようと思いつく。ここは、岩殿山の南の稜線続きの、生坂村と旧明科町(現:安曇野市)との境にある岩峰群で、それら個々のピークの名は地形図上では例によって明らかでないが、地元の人の話を総合すれば、どうもそれら全てを総称して「岩州(いわす)」と言っているようだ。その名から連想される通り、随所に急峻な岩場が露出し、特異な景観を呈する。そんな所だけに、冬季の訪問は少々危ないかとも思ったが… それでも「公園」と名付けているくらいだから、先刻の大城山ほど怖くはないだろうし、また折角近くにもいるので、あえて訪問を決意。早速、旧明科町側の国道403号から標識に導かれて、細い林道を登り口の「山の神」の社のピークの直下まで車で上がり、まずは山の神を参拝した上、いよいよ「岩州」のエリア内に踏み込む。
 すぐに「蛇岩」を通過、「高松薬師城(横谷城)」址のピークへ。戸谷峰や鉢伏山などの眺めが良い峰で、同地の案内看板には「岩州の頂上」という記述があるので、一般にはここを岩州公園エリア内の頂上とみなしてよさそうだ。が、稜線はそこからさらに北東に向けて、さらに多くのピークを経つつ続いている。そちらへの道をたどってみると、「白州岩」「投越岩」「烏帽子(猿とび)岩」「猿が城址」… と見所の連続で飽きない進行が続き、やがて北端部でエリア内最高標高点の「三ケ月岩」に達する。その間、猿が城址で日没となったが、むしろそんな時刻ゆえに、先刻訪れたばかりの大城山方面や、北アルプス常念岳等の暮色が何ともいえず風流。道も予想通り意外と安全で、私は充実感と共に雪明りの道を駐車場所まで戻った。







 広島県呉市〜未明の休山
 2/18未明、たまたま所用で広島県に訪れていた機会を利用し、午前4時頃、呉市の休山(やすみやま)に立ち寄る。
 この山、終戦前までは旧海軍の要塞エリアの内に入っていて、一般人は立入禁止だったそうだが、今ではほとんど頂上近くまで車で上がることができ、また頂上には展望台もあって憩いの山といった雰囲気。したがって「山」としては少々物足りない感は禁じ得ないが… それでも、ここから眺めた呉港の夜景は結構印象的だったことや、また信州人の私が訪れた数少ない中国地方の山のうちの一つであることなどから、あえて収録した次第。
 なお、一体なにゆえ、わざわざ真っ暗な未明にここを訪れることになったかの事情の詳細については、次の「クマン岳」の項を参照されたい。